『コロナの倫理学』 ⑥コロナ差別

『コロナの倫理学』 ⑥コロナ差別

森田浩之

 

屋外でのマスク着用の是非

 

自称“コロナ・オタク”の私からすれば、家から一歩でも出れば、いつでも必ずマスクをするのが当然である。コンビニを始めとするあらゆるお店でも、入り口に「入店の際はマスクの着用をお願いします」と書いてある。

 

一時期は、あるチェーン店のカフェでも、入り口に「店内では、お食事中以外は、マスクの着用をお願いします」と書いてあった。しかし数日後に消えていたのは、反発する客がいたからなのだろう。お店の人に対して逆ギレする人がまだいるということか。毎朝の散歩コース沿いにあるラーメン屋さんだけは、いまでも「店内では、お食事以外の時は、マスクの着用をお願いします」と手書きの紙を貼り続けている。お店側に度胸があるのか、理解ある寛容なお客さんが多いお店なのか。おそらく両方だろう。

 

とはいえ、一歩外に出てから帰宅まで、ずっと着用するのは嫌だという人には、どちらかと言えば、室内での着用をお願いしたい。感染は3密(密閉・密着・密接)で起こりやすいから、この条件は室内で揃うからである。

 

しかし本稿を書き始めた2021年4月後半に、外で飲むのも危ないという話が出てきた。実際に屋外の会食でのクラスターが報告されていたり、居酒屋が「まん延防止等重点措置」の適用により夜の8時で閉まってしまうため、その後、街中で飲み続ける若者がいるという報道もあった1)。

 

スーパーコンピューター富岳のシミュレーションでも、屋外でマスクなしで会話すると飛沫が広がるとの結果が出ている2)。これに関してはていねいに分析したいので、長く引用しておこう(NHK NEW WEB 2021年4月23日)。

 

1.「シミュレーションでは、屋外で10人がテーブルを囲んで輪になって飲食している場面を想定しました。」

 

2.「向かい合う人どうしの間隔を1メートルとし、風が吹いていない無風の状態でマスクをつけていない人が30秒間、大声で話をした場合、正面の人とその両隣の3人が飛まつを浴びるという結果になりました。」

 

3.「また、毎秒0.5メートルのそよ風が吹いている場合は、小さな飛まつは周辺に広がり、正面や風下にいる人など合わせて6人が飛まつを浴びたということです。」

 

4.「大声を出す人がマスクをつけていた場合は、周りの人に飛まつがかかることはありませんでした。」

 

5.「グループでは、向かい合う人どうしの間隔を1.7メートルに広げた場合についても、シミュレーションを行いました。」

 

6.「その結果、風が吹いてない状態でマスクなしで大声を出すと、間隔が1メートルのときと比べて飛まつの量は半分に減ったものの、やはり正面とその両隣の3人が飛まつを浴びるという結果になりました。」

 

以前、ウイルスが水分を含んでいるため、室内の湿度を上げておくと、ウイルスは湿気を含んで重くなり、落下しやすくなると述べた。一方、3密の「密閉」状態を避けるためには、二方面の窓かドアを開放したままにしておくべきとも述べた。さらに、ウイルスの落下を速めるには無風のほうがよく、反対に、ウイルスを滞留させないためには風があったほうがいいとも説明した。

 

厳密に捉えると、両者は矛盾している。実はこれを矛盾と感じたのは、上記のようなニュースを数多く読んできたからだろう。この1年間、無数の記事、サイト、報告書などを読み続けてきたため、ひとつひとつの出典を明らかにできないのが、悲しく、情けなく、そして書いている身として、読者のみなさまに申し訳ない。しかし可能なかぎり、私が当時読んだ記事そのものではないにしても、証拠となるような報道や研究は注として入れるよう努力している。そのひとつが富岳のシミュレーションである。

 

引用の2段落目、無風状態で飛沫は正面と両隣りの3人にかかる。一方、3段落目、微風が吹いている場合は、6人が飛沫を浴びた。風があることで、かえって感染者を増やすことになりかねないということだ。「これだ!」と断言できるような完璧な感染防止策がないのは、このように状況次第で飛沫の拡散の仕方が変わってしまうからである。

 

次に5段落目と6段落目、人との距離を1.7メートルに広げても、飛沫量は減るものの、3人が飛沫を浴びている。これも以前書いたことだが、「濃厚接触」の定義は「マスクを着用せず」、「1メートル以内で」、「15分以上」会話するというものである。文字どおりに受け取るならば、1メートルの間隔があれば、感染しないだろうということになる。しかし富岳のシミュレーションによれば、1.7メートルでも飛沫は届いてしまう。

 

「濃厚接触」は保健所が、感染者がウイルスをうつしていると思われる人を追跡する際の指針であり、これをもし2メートルに延ばしたら、保健所では対応しきれないほどに、濃厚接触者の数が増えてしまう。だから「1メートル」は行政の指針に過ぎず、われわれ一般人が日常生活を送る際は「2メートル」の間隔を維持しなければならない。富岳はそれを科学的に示してくれた。

 

そして4段落目に戻れば、やはりマスクには効果があることが証明された。むしろロックダウン(都市封鎖)に踏み切るよりも、マスク着用を義務化して、それを取り締まったほうが感染対策と経済活動は両立するのではないだろうか。不用心にマスクを外して話を弾ませる人の責任を、飲食店だけでなく、商業施設からイベントまで、とてつもなく多くの人が負わされている。不条理この上ない。

 

 ランナーのマスク着用の是非

 

このように、基本的にはマスクは室内では絶対必需品であり、人がいないことを前提に、屋外ならば取ってもよいと言われてきた。しかし同じく富岳のシミュレーションによれば、マスクなしでランナーが会話していると、その飛沫は後方3メートルに届くとのことである3)。富岳の今回のミッションは「屋外を歩行中に周りの人がさらされる感染リスクについて調べる」ことで、マスクなしで立ち止まっている人、歩いている人、走っている人、それぞれが話しているとして、その飛沫が周りの人にどれだけ届くかをシミュレートした。立ち止まっている人の飛沫は1.5メートル、歩いている人の飛沫は後方の2メートルから3メートルも流れるそうである。そしてこの記事は「研究チームは、マスクをせずに歩きながら会話している人との距離は3メートルほど取ることや、ジョギングを一緒にする場合は後ろで長時間伴走するのは避けるよう呼びかけています」と結論づけている。

 

私は科学的証拠として、マスクなしランナーの危険性について知ったのはこれが初めてであるが、それまで推測的な知識として語られてきたことをもとに、マスクなしランナーには近づかないことにしていた。私は雨の日以外は、必ず毎日2時間ウォーキングするようにしている。コロナ前はランナーがよく利用する場所を歩いていたが、コロナ以降、そこには行かないようにした。もう半年以上は近づいていないので知りようがないが、1回目の緊急事態宣言の最中でさえ、3分の1はマスクをしていなかった。そして緊急事態宣言が明けてからは、マスクなし人口は一気に増え、半年前、最後に訪れた時は、半分以上はマスクを着用していなかった。

 

もちろんマスクをして走ることのむずかしさは理解しているつもりだ。私でさえ、信号無視をしないよう、信号のタイミングが合わない時は走るので、ランニング中にマスクをしていると、どれほど息苦しいかは、少しはわかっている。しかし屋外とはいえ、密集しているところでも、平然とマスクなしで息をぜいぜいさせている人が近づいてくると、「非常識!」と叫びたくなる。

 

そこで仕方なく、人通りの少ないところに移ることにした。しかし今度は普通の歩行者のなかでマスクなしの人を見かけるようになった。とはいえ、マスクをしない人みんなが非常識なわけではないだろう。その人は専門家ではないが、私以上にコロナに詳しく、飛沫の拡散の仕方について完璧に熟知しており、室内では完全無欠なほど着用し続けるが、屋外に関しては、どういう状況ならば外してよいかを理解しているので、その知識をもとに、偶然、私が見た時だけ、マスクを着用していなかっただけかもしれない。だからマスクなし歩行者の全員を責めることはできない。

 

しかし、それでも、このご時世で、平然とマスクなしで歩いている人を見ると、「ふてぶてしいなぁ」と感じてしまう。そのうち、感染者数が増えてきて、マスコミや政府レベルでは緊張感が増してきても、街のなかではマスクをしない人が平気な顔をして闊歩していた。しかし、たまに一般の歩道をマスクなしで息を切らせて私に突進してくるように走ってくるランナーに出くわす。情けないが、私は思わず「マスクをしないなら、もう少し端を走ってくれませんか」と言ってしまった。

 

私の知識が正しいかどうかはわからないが、自分のなかでは、息を切らせて走ってくる人が1メートル以内に接近しても、私は感染しないと思う。そう、そのランナーが無症状ながらウイルスを持っていても、そしてその息の一部が私の顔にかかっても、私は感染しないであろう。「ならば、文句を言わなくてもいいんじゃない?」と思われるだろうが、問題は私が感染するかどうかではない。その態度が気に入らないのである。

 

この続きの前に、感染しない理由を述べておこう。これはまったくの素人の邪推であることをお断りしておく。「濃厚接触」の定義に「15分以上」の会話というのがある。勝手な推測だが、感染させる、つまり私の口か鼻に届いたウイルスが人体に悪さをするくらい増殖するためには、それなりの量のウイルスが私の内部に入る必要があるのではないだろうか。つまりウイルス入りであっても、一瞬だけ息を吹きかけられた程度では、充分なウイルス量には到達しないのではないだろうか。だから、通りすがりに息を吹きかけられたくらいでは、感染は起こらないと思う。

 

ただし、ゼロではないだろう。本当に稀にピンポイントで、ウイルスを持つランナーの息にウイルスが凝縮して、顔を向けた方向に、まさにドンピシャというほど、完璧な角度で私の顔が向き、同時に口を大きく開けて深呼吸していたら、ウイルスが感染する可能性は排除できない。しかしこれは感染者と出会う0.03%なんていうよりも、もっと低い確率、たとえば航空機事故で死ぬくらいの確率ではないだろうか(ネットでは諸説あったが、あるサイト4)では0.0009%とあった)。

 

 正義感と差別の境界

 

いままで私が説明してきたすべてのコロナ知識から判断して、私は新型コロナウイルスに感染することは、本人の責任ではないと感じている。私は感染していないが、何度も感染していてもおかしくない状況に置かれた。相手を責めるつもりはないが、私にしてみれば、その状況は不可抗力であり、私がコントロールすることはできなかった。いまでは会食相手に「このご時世ですので、やめましょう」とか、断り切れない時は「こんな状況ですから、マスクをさせてもらいます」と言うことはできる。しかし昨年の秋までは、なかなか理解してもらえなかった。クライアントに「取りましょう」と言われれば、マスクを外さざるを得ない。もしそこで感染していたら、私自身、自分を責めることはできない。そしてこれはほかのすべての感染者に言える。

 

しかし一方で、マスクなしで息を切らせて私に接近してくるランナーを見ると、戸惑いというか、正直言うと、無性に腹が立つ。感染者に責任はないから、感染者を差別することは犯罪行為とみなしてよいほど、絶対にしてはならないことである。とはいえ、マスクなしランナーに立腹する自分と、差別する人との差は何かと悩むこともある。もちろん私は差別をしたことはないし、差別を大いに非難する。だが、心情を理解できるかと問われれば、理解できると答えるしかない。立腹という点では、根底は同じかもしれないからだ。

 

だからといって、入り口に「マスクの着用をお願いします」と張り紙がされたコンビニに平然とマスクなしで入る人を見て、何も感じないとしたら、それはそれで問題だと思う。とはいえ、ここで注釈をつけるならば、マスクをしない人がコンビニで買い物をしても、店員に感染させることはない。というより、絶対に、ない。なぜなら、レジにビニールシートを張っていないコンビニはもうないし、そもそもコンビニという場所では、店の人と客が会話することがないからだ。客どうしも同様で、コンビニとは、無言のまま短時間で出入りする通過点のようなものだ。

 

ランナーにしても、コンビニにしても、私の知識が正しいとして、冷静に分析すれば、そこで感染が起こる可能性は限りなくゼロに近いのに、それでも私は立腹している。私はそのふてぶてしい態度に立腹しているのである。つまり走っている時、買い物をしている時、その場面だけでは、その人は(その人がウイルスを持っているという想定で)他人に感染させることはないだろう。しかしその人は、それぞれの場面でそういう態度をしているということは、おそらく感染が起こり得る別の場面でも、同じようにマスクをしないのであろう。ということは、私の見ていないところで、その人は他人にウイルスをうつしているかもしれない。そういう無責任な態度に立腹しているのである。

 

だから、私の場合は、「私に」感染させ得ることに立腹しているわけではない。これ以上、感染者を増やすような無責任な態度を貫いていることに憤っている。もしこれをカッコよく「正義感」と名づけるならば、正義感と差別は紙一重なのだろうか。この1年間、差別に関する無数の記事を読んできた。とはいえ、最近は減っているような気がする。差別を助長しかねないとするマスコミ側の配慮か、それともさらなる差別を怖れる被害者が取材を拒否するからなのか。この1年間に読んだ記事すべてを思い起こせればいいのだが、日々、読み流してしまうので、個々の記事を紹介できないのが残念だ。そこで最近見た記事を紹介することで、消え去った記憶の穴埋めをしたい。

 

なお、ご覧のとおり、以前も含め、マスコミの第一報はNHK NEW WEBに頼っている。これは単なる習い性で、Yahoo! Japanをご自身のホームページにしている人もいれば、自分の好きな新聞を毎日チェックされている方もおられよう。私はアイテムの数が多いのと、皮肉でなく、本当にいい意味で、“無難な”ことだけを報道しているという点、さらには政府の言い分を注釈なしにダイレクトに伝えているので、NHKを多用している。「政府の言い分をそのまま信じるのか!」とお叱りを受けそうだが、政府に集められた専門家の面々を拝見すれば、政府の威力がよくわかる。そんなに懐疑的になる必要はないと思う。

 

紹介したい記事は「新型コロナ“高校クラスター”は こうして炎上した」5)で、クラスターの発生した高校が、どういう差別を受けてきたのかを報じたものである。リードには「激しいひぼう中傷やデマ、プライバシー侵害にさらされ、教職員のみならず、多くの生徒たちが心に大きな傷を受けました」とある。そして学校に届けられた誹謗中傷には「日本から出ていけ!」「クズのような学校は潰してくれ!」「どんな教育をしているんだ」があった。これに対して校長先生は「新型コロナウイルスの拡大とともに、偏見・差別・ひぼう中傷の拡大は比例すると実感しました。理不尽と分かっていても、経験した人は深い心の傷を負うことになります。行き場のない怒りが原因を作った本校に寄せられたのだと思いました」と述べている。

 

「行き場のない怒り」とは何か。自分が感染するリスクを言っているのか、それとも私のように社会全体として感染者を増やすことを咎めているのか。正直、私はSNS上だけでなく、学校に直接、電話や手紙で誹謗中傷を浴びせかける人たちの心情がさっぱり理解できない。むしろ感染したことに責任がない以上、クラスター発生の報道が当時、実名で流されてしまった学校の生徒と教員が気の毒でならなかった。だから私は匿名で誹謗中傷してくる人たちに大いに腹が立つ。

 

私は誹謗中傷する人の気持ちが理解できないから、その人たちの心理を分析することはできない。しかしあえて私自身を守るために、私とその人たちとを区別したい。私は社会全体と、とくに医療従事者、さらには意図せずウイルスを受け取ってしまい重症化したり、亡くなったりする人のことを思うと、不用意にマスクなしで談笑する人や息を吹きかける人に対して、怒りがこみ上げる。「私に」ではなく、私よりも、もっともっと不利な立場にある人のことを思って、憤慨している。

 

しかし差別する人は、自分の身の安全だけを考えて、自分を危険にさらす人を非難しているのではないだろうか。他者を考慮の中心にするのか、それとも“自分さえよければいい”とするのか。これが正義感と差別の境界だと、いまのところ暫定的に定義しておきたい。今後、考察を深めていくつもりである。

 

 

1)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210420/k10012985801000.html

2)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210423/k10012993861000.html

3)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210304/k10012897911000.html

4)https://www.itmedia.co.jp/makoto/articles/1503/25/news012.html

5)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210406/k10012956881000.html

 

森田浩之(モリタ・ヒロユキ)

東日本国際大学客員教授

1966年生まれ。

1991年、慶應義塾大学文学部卒業。

1996年、同法学研究科政治学専攻博士課程単位取得。

1996~1998年、University College London哲学部留学。

著書

『情報社会のコスモロジー』(日本評論社 1994年)

『社会の形而上学』(日本評論社 1998年)

『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社 1999年)

『ロールズ正義論入門』(論創社 2019年)

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