『コロナの倫理学』 ⑩倫理が破綻する時
森田浩之
権力への反抗
2021年4月25からの3回目の緊急事態宣言は、対象が東京都、大阪府、京都府、兵庫県だけであるが、そこでは飲食店には営業時間の短縮だけでなく、酒類の提供も停止するよう要請している。加えて、大規模な商業施設には休業要請を、イベントにも中止か、決行する場合には無観客で行うよう要請した。
飲食店は形態によって対応が分かれるが、主に夜を中心に営業し、とくにアルコールで稼ぐ店は大打撃で、多くの店がゴールデンウイーク中、休業していた。私が日頃通っているような日中で稼ぐ店は外出自粛の影響はあるものの、つまりお客さんの数は多少減るものの、そもそも要請対象ではないため、緊急事態宣言の影響がないわけではないが、それほど深刻ではない。店の形態によって明暗が分かれた。
飲食店の大ファンの私にとって、あまりにも悲しい現実である。あまりつきあいのよいほうではないとはいえ、愉快な仲間と深夜までじっくり語り合うことの素晴らしさはよく知っているつもりだ。私の場合は、大宴会は苦手だが、好みのワインともに気の合う少人数と過ごす永遠に終わらない夜は至福のひとときである。だから休業しなくてはいけない飲食店の辛さも他人事ではない。
加えて、この間、プロスポーツが無観客で行われた。いまは日々の結果さえ見なくなってしまったが、かつては野球少年で、実際に野球場に足を運び、生の雰囲気を全身で体感できることは、数年に一度の崇高にして神聖な日であった。数日どころか、数週間前から待ち遠しく、だれが先発か、どんな試合になるのかを勝手に空想しながら、毎日チケットを大切に眺めていたものだ。だから3回目の緊急事態宣言によって、急に払い戻しになったお客さんたちは、とても残念だったに違いない。野球少年だった頃の私なら、発狂していたことだろう。
しかし諸外国から見れば、日本はまだいいほうだ。以前述べたように、欧米のロックダウン(都市封鎖)と緊急事態宣言は似て非なるもの。後者は人が集まるところに休業「要請」することで、人が密集しないような措置を講ずることである。だから飲食店や商業施設やイベント以外の場所には、人は好きに行くことができる。
前者は商業側にも休業「命令」するが、主眼は一般の人が外に出ないように取り締まることである。これも以前書いたが、フランスでは買い物の際に許可証が必要であり、散歩やジョギングでさえ、外出時間と行動範囲が限定された。そして「」に入れて強調したように、日本が「要請」なのに対して、欧米は法的な「禁止」である。日本では警察が取り締まることはないが、欧米では警察に権限が与えられた。
日本でも、反抗的な行動がなかったわけではない。しかしそれは「反抗」というよりは「抜け道」のようなもので、飲食店がアルコールを提供できないなら、客が持ち込めばいいと考えた人もいたようだ1)。しかし欧米では鬱積した若者が大人数のパーティーを敢行して、警察の取り締まりにあっている。
時系列でなく、ランダムに挙げるならば、NHK NEWS WEB(2021年3月22日)によると、アメリカのフロリダ州で春休み中の大学生が路上でパーティーを開き、警察が取り締まりに乗り出したとのことである2)。ニューズウィーク日本版(2020年8月3日)では、アメリカ・イリノイ州での500人規模のマスクなし密着パーティーについて紹介されている3)。産経新聞(2021年1月2日)は、大晦日にフランス西部で行われた2500人が参加したダンスパーティーを伝えている4)。取り締まりに来た警察に抵抗して、車両に放火するなどして、パーティーは1月2日まで続いた。
さらに、時事通信(2020年7月19日)によると、ドイツのフランクフルトで、「コロナ・パーティー」を開いた若者が乱闘騒ぎを起こし、介入した警察に瓶を投げるなどして39人が逮捕された5)。毎日新聞(2021年4月2日)は、ベルギーのブリュッセルで、「エープリルフール・パーティー」のうわさがSNSで流され、数千人の若者が集まったため警察が解散させようとし、若者と警察が衝突したと報じている6)。CNN.co.jp(2021年2月17日)は、イギリス・バーミンガムのナイトクラブで、150人のパーティーが摘発されたとする記事を掲載している7)。
哲学的根拠を求めて
日頃から哲学書ばかり読みつつ、毎日のコロナ探索で以上のような記事に出合うと、「どういう根拠でこんなことができるのだろうか」と不思議に思ってしまう。もちろん私は警察に瓶を投げたり、車に放火する若者たちを擁護するつもりはない。しかしどんな根拠で、警察は自由な市民が楽しむパーティーを解散させる権限を持てたのか、ただそれを知りたいだけである。
これまでマスクなし会食をあれほど非難しておいて、何をいまさら、という感じはするが、ここで警察に取り締まる権限を与える哲学的根拠について考えてみたい。なぜこんな不可思議な疑問を持ったのかというと、現実の政治には興味がなく、ただ哲学的にしか政治と関わる気がない者としては、政治の哲学的基盤を知りたい。そして現代における政治の哲学的基盤は民主主義である。これはだれもが認める現代政治の普遍的真理と断言していいであろう。
もし民主主義が金科玉条の普遍的真理ならば、民主主義とは、有権者が望む政策を政府に実行させることである。しかし緊急事態宣言にしても、ロックダウンにしても、だれも望んでいない政策だ。それを強行するとは、反民主主義的ではないのか。
もちろん、常識的な見解はわかっている。コロナによって重症化したり、亡くなったりする人がいるから、それを防ぐために、人の流れを止めなければならない。たとえそれで大半の有権者の不評を買おうとも。加えて、医療体制が壊れかけている。これはふたつの面で深刻な事態に至る。ひとつは医療従事者の負担である。これは何度も述べてきた。もうひとつは玉突きで、ほかの診療に影響が及んでいること。たとえば、3回目の緊急事態宣言下のニュースでは、朝日新聞(2021年4月27日)によると、「新型コロナウイルス患者向けの病床が逼迫(ひっぱく)している事態を受け、がんの治療に特化した大阪国際がんセンター(大阪市中央区)は28日から、新型コロナの重症患者を受け入れる。ICU(集中治療室)をコロナ患者にあてる」という8)。
大半の有権者は望んでいないが、何かのために我慢を強いる、この哲学的根拠は何か。ふたつ考えられる。ひとつは「共通善」9)を実現するために、政府には違反者を取り締まる権限が与えられる。もうひとつは「政治的義務」10)11)として、国民は政府の方針に従わなければならない。
後者について先に説明するならば、どんな政府の方針に対しても、国民は政治的義務を果たさなければならない、つまり政府がどれほど酷いことをしようとも、国民はそれに従わなければならない、ということではない。政治的決定には、実はいくつかの段階がある。ロールズの場合ならば、①社会の基本構造について合意すると、➁次に憲法を決める段階が来て、➂その後に政治家だけによる法律を制定する段階になり、④最後に政府が法を執行したり、裁判所が法に基づき個別案件について判断することになる12)。
哲学的に一番大事なのは、最も根源的な①社会の基本構造を決めるところである。ロールズは公平な状態を「オリジナル・ポジション」とし、ここではみんながまったく同じ立場で、社会の基本原理を採択する場に臨む。ロールズの言う「公平」とは、みんなが自分の状況を知らないことである。もし健康なら、医療保険は要らないし、もし金持ちなら、所得の再分配に反対する。自分が健康か、金持ちかを知らない状況で、「正義の二原理」と功利主義(最大多数の最大幸福)を提示されたら、前者を選ぶだろう、とロールズは論証する。
ここではロールズの厳密な議論を採用する気はない。ただ単純に、憲法を決める前提として、どんな社会であるべきかという原理原則を選ぶ段階が、架空とはいえ、存在するとしておきたい。もし人民が社会の基本的な方向性について合意しているならば、憲法も大方の賛同を得るだろう。これらを「システム」と呼ぶならば、システムを選ぶ段階で、全員参加で、公平で、全会一致ならば、人民はシステムを維持する「義務」を負う。これは個々の法律すべてに無条件に従うことではない。
だが、システムの選択に賛同しておいて、法律が正しい方法で決められたにもかかわらず、すべての法律に、とくに暴力を用いて抵抗するならば、「政治的義務」に反する。システムに賛同し、システムに書かれているとおりの適切な手続きで法律が決まったら、それに従うのは当然であり、それが「政治的義務」である。
「共通善」に戻ると、これは文字そのまま、社会の構成員みんなにとって「善いこと」を意味する。「善いこと」を実現するために、一部、社会の構成員に不便をかけなければならない場合がある。共通善は一部の人の目先の利益に反するため、その一部の不満を抑え込むために、国家は権力をふるう権限を、社会の基本構造を決める段階で人民から与えられた。
コロナにおいては「重症化と死を防ぐこと」と「医療崩壊を防ぐこと」はだれもが反対できないほどの正論なので、これは共通善だが、これを実現するためには、飲食店に休業してもらったり、プロ野球を無観客でやらなければならない。しかし不満があるため、それを抑え込むために、日本では罰金(正確には、自治体の科料)程度だが、違反者を取り締まる権限が政府(自治体)に与えられる。
これは多くの人にとって納得できる議論なのか。これと民主主義は両立するのか。おそらく現代民主主義論が「民意」を強調してきたため、民主主義と国家権力が同じ枠組みに収まりきらない。民主主義を前提に国家権力を正当化することは、いまの民主主義論では難題である。コロナ禍はその矛盾を浮き彫りにした。
政治的義務を再論すれば、とりあえず、日本の政治・経済・社会システムの基本構造について、全国民の合意があるとしよう。そしてその前提で、全員とは言わないまでも、圧倒的多数に憲法が支持されているとしよう。憲法には、法律の決め方について書かれているから、その規則どおりに決められた法律は正しい手続きで決まったと見なしてよい。すると、そうして決められた法律に、国民は従う義務を負うのだろうか。
飲食店への休業要請について、これは違憲・違法だとして訴えた外食産業の会社がある。『食の世界をつなぐWebマガジン Foodist』13)は「法的義務のない時短要請に従わないとする同社に対し、施設使用制限命令を発出した東京都を被告として、当該命令及びその根拠となる特措法が違憲・違法であることを理由に国家賠償を求めている」と伝える。
少しこの話を続けたい。Foodistの記事は、訴えた会社について、別の飲食店の見解を紹介している。興味深いので、ふたつ引用しよう。
「行政による時短要請について東京都内で飲食店を営むとあるオーナーは『個人的にはいち事業者として、社会に貢献する義務があると思いますし、自分の為にも家族の為にもお客様の為にも感染拡大防止に協力します』というコロナ禍での方針を話してくれた。」
「一方、『そもそも時短営業がどれほど感染拡大防止に影響しているのか、行政による説得材料の提示が少ないかと思います』という時短要請の実効性に関する疑問の声も飲食関係者から寄せられた。」
ふたつのコメントを紹介したのは、前者が「義務」という言葉を使っており、後者で効果に対する疑問が表明されたためである。話が拡散するが、さらに続けると、後者は別次元の話だが、飲食店への要請が意味あるものなのかを再考させる重要な証言である。ただし、私はいままで散々、外食時の飛沫感染が感染経路の中心だと述べてきたので、飲食店への要請には効果があると思っている。これを引用したのは、ほかの対策すべてに同じことが言えるのか、振り返るきっかけになったからである。
この話をさらに続けると本論を忘れてしまうので、政治的義務に戻ると、国会や政府の決定を守る「義務」が生じる根拠はなんだろうか。哲学的には、社会の基本構造への賛同によって、法律に従う義務が発生すると答えたいが、それは哲学研究者の空想に過ぎないので、もっと大雑把に「システムへの信任」によって、システムが規定した手続きに則って決められたルール(法律)に従う義務が生ずる、ということになるだろう。でも、もしシステムに対する信任が揺らいでいたら、そして、決定過程にも疑義が多数寄せられていたら、法律に従う義務はあるのだろうか。
倫理の次元へ
私は別の角度から、コロナが政治マターになったことが悲劇の始まりだと考えるようになった。それは、あまりにも多くの人が政治に対して要望を寄せ過ぎていることを、現代社会の病理と考えるようになったからである。政治が商売のようにコスト・アンド・ベネフィットで捉えられるようになって久しい。有権者は消費者で、政治家は生産者で、政策に対して税金という対価を払う構図になっている。
消費税を「お願いする」と言うが、それは年金や医療などの公共サービスに使われるわけだから、国民は料金として政治家や政府に支払っているわけではない。しかし有権者は顧客様という見方が浸透してしまったので、有権者は政治に対して要求ばかりするようになった。結果が目も当てられないほどの財政赤字である。年金を要求する高齢者の投票率が高いから、その顧客様を満足させるために、政治は投票しない人に不利益を負わせることで、選挙という目先の競争で生き残る。
これによって政治課題がどんどん増えて、本来なら民間がやるべきことまで、政治が引き受けるようになっている。私は哲学的視点で見ているから、細かい政策について言うつもりはない。私が言いたいのは、もっと怖いことで、これによって国家権力がどんどん大きくなることである。
国民が要求すればするほど、政府は「はい、やります。だから権限をください」とねだる。有権者は短期的な利益に目がくらんで、これによって国家権力が肥大化するという長期的な弊害については考えない。しかし国家がどんどん私的領域に入ってくることは、金銭的な利益よりも、もっともっと多くのものを失う。「自由」と言うと、月並みに聞こえるが、自由は失うまで大切さがわからない。われわれは拝金主義社会に生きているので、普遍的価値の重みが理解できなくなっている。しかし私は、私的領域を守るためには、金銭的な損を覚悟すべきであると声を大にして叫びたい。
コロナに関して、政府は感染を抑えられなくて「申し訳ない」と言う。本当に政府のせいなのか。定期的な選挙がある制度のもとでは、政治家はお客様たる有権者に媚びを売らなければならない。いまの構図では、重症者・死者、そして医療従事者に極度の苦しみを負わせて、大多数に楽しみを提供している。しかし前者の負担が過度になったため、後者に「不便」をかけている。深刻な苦難に晒されるのは少数者で、ちょっとした不便で文句を言うのは大多数。だが有権者としては1人1票とまったく平等なので、人数の多いほうの言い分に傾く。
しかし本当の問題は、有権者に媚びを売るあまり、国家が権限を増やしていることであり、それで私的な領域が公的な領域によって、侵食されていることである。政治のレベルから一段降りて、〈倫理〉の世界に入ってみよう。これは前回述べたように「個人の行動規範」のことである。政府に対して「こうしろ、ああしろ」と言うのではなく、「自分がこう行動することが、社会を善い方向に進める」と考えることである。
いまは〈倫理〉が破綻した状態である。個人がみずからすべきことを放棄して、それで世の中がうまくいかないと、政治に解決を求める。これで国家は権力を大きくしていくが、そのツケは後世が負わされる。選挙公約実現という名目で、政府は次々と権限を獲得していく。個々人が、病院が対応できる程度の患者数で抑えられる程度に、飲食店で懸命に振る舞ってくれていれば、医療現場だけでなく、飲食店も助かったのに、と悔しい思いがする。
いずれにせよ、政治に要求ばかりする社会はいずれ私的領域を狭め、自由を失う。〈倫理〉が破綻する時、権力が頭をもたげてくる。
1)https://www.news24.jp/articles/2021/04/28/07863987.html
2)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210322/k10012928321000.html
3)https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/08/post-94094.php
4)https://www.sankei.com/world/news/210102/wor2101020008-n1.html
5)https://www.jiji.com/jc/article?k=2020071900329&g=int
6)https://mainichi.jp/articles/20210402/k00/00m/030/036000c
7)https://www.cnn.co.jp/world/35166602.html
8)https://www.asahi.com/articles/ASP4W3TKTP4WPTIL00H.html
9)Hans Sluga, Politics and the Search for the Common Good, Cambridge University Press,2014.
10)Margaret Gilbert, A Theory of Political Obligation, Oxford University Press, 2008.
11)Dudley Knowles, Political Obligation, Routledge, 2009.
12)拙著『ロールズ正義論入門』論創社、2019。
13)https://www.inshokuten.com/foodist/article/6083/
森田浩之(モリタ・ヒロユキ)
東日本国際大学客員教授
1966年生まれ。
1991年、慶應義塾大学文学部卒業。
1996年、同法学研究科政治学専攻博士課程単位取得。
1996~1998年、University College London哲学部留学。
著書
『情報社会のコスモロジー』(日本評論社 1994年)
『社会の形而上学』(日本評論社 1998年)
『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社 1999年)
『ロールズ正義論入門』(論創社 2019年)