『コロナの倫理学』 ⑬コロナ時代の教育
森田浩之
質問しない学生たち
テクノロジーをどう考えるか。ラップトップ、iPad、アンドロイドのタブレット、スマートフォンにいつも取り囲まれていないと不安になる私は、技術は人間の英知の証であり、使えるものはどんどん使おう、という立場である。コロナ禍でとくに活躍しているのが通信で、その具体的形態が前回扱ったテレワークや、今回のテーマであるオンライン教育。ここではウイズ・コロナ/アフター・コロナを通じた教育の姿を模索したい。
私は現在は学生を教えていないが、私のような経歴の者は若い頃、非常勤講師でオン・ザ・ジョブ・トレーニングをさせてもらったものだ。生身の人間どうしがアイコンタクトしながら、対面で学ぶことは、確かに意義深い。しかしコロナ禍で対面がむずかしくなり、オンライン授業が導入された。
テレワークの場合は、もちろん業種にもよるが、ひとりで集中してやる仕事ならば、オンラインである必要はない。仕事の成果を会社に送るとか、資料を仲間で共有する場合にはメール程度で済むかもしれない。会議の時だけ、ずっとつなぎっぱなしで、オンラインで話し合う。だからテレワークでは、パソコンを通じて、黙って人の話を長時間、一方的に聞くとか、1日のスケジュールの大半を発表と討議に費やすこということは、そんなにないかもしれない(くり返すが、あくまで業種による)。
しかし学生の仕事は、1日中、人の話を聞くことである。大学生なら、3年生以降はゼミで双方向のやり取りをすることになるが、それでも1日の大半は黙って教室に座って、教員の話を聞き続ける。
これをオンラインでやるということは、実は想像以上にむずかしいことだと思う。私の企業研修講師という仕事から類推して言うならば、話し手としてはオンラインで不都合はあまりないと思う。でも、聞くほうの立場になれば、パソコンの画面を見ながら1日中、一方的に人の話を聞かなければならないというのは、かなりつらいことなのではないだろうか。
これは私の体験でもあるが、オンラインの利点はむしろ、ひとりだけが話すことではなく、テクノロジーを活用した双方向にあると思う。でも、大学までの一方通行の授業形態のオンライン化では、生徒・学生は結構たいへんではないかと推察する。
ただし「質問しづらい」のかというと、これはオンラインの問題ではないと思う。それを感じたのがNHK NEWS WEB(2020年11月18日)の「質問しづらくないですか?」1)という記事であった。私の反論を明確にするため、かなり長く引用する(著作権に違反しないことを祈るのみ)。
冒頭のリードは次のようになっている。「今や当たり前になりつつある“オンライン”の会議や授業。『何か質問ありませんか?』『「意見ある人はいる?』画面越しのこの呼びかけにどうしても戸惑いを覚えます。『気になることはあるけれど、今、ここで自分が言うほどでも…』みなさんは気軽に質問できていますか?」
そして大学の先生によるSNSの投稿が紹介される。「授業中に質問は?とたずねても反応がないのに、あとから個別にメールやDMで学生から質問が来る。質問するのは悪いこと、恥ずかしいことという価値観がどこかで埋め込まれている気がする。」
この先生曰く、学生は授業に興味がないわけではない。というのも授業後に、個別にメールやダイレクトメッセージがくるからである。しかしコロナ禍でオンラインになってから、授業中の質問が少なくなっているという。
先のSNSに対して、別の教員たちから「実名だと下手な質問ができないと言われた」「オンラインでチャットをオープンにしているが、みんなが見ている場所での質問はほとんどない」というコメントがあった。
学生からも「質問そのものではなく、みんなが見ている場所で1対1のコミュニケーションをするハードルが高い」「生徒側の気持ちが分かる。自分が質問することで他の人の質問する機会や時間を奪うのは気が引ける」という回答が寄せられた。
もちろんNHKは公平に、オンラインだけの責任にはしない。記事内に「『無質問』 以前から議論に」という見出しがあり、学生が質問をしない要因として「他者の存在」「友人」「学習動機の低さ」「授業スタイル」が挙げられている。続けて「この中で、特に強かったのが1の『他者の存在』で、具体的には『恥ずかしい』や『目立ちたくない』などといった他人からどう思われているのかを気にする傾向です」という解説。
これについて教育の専門家は次のように述べる。「対面であれば、人の目の動きや表情とか呼吸みたいなものをうまく読んで、今ここで自分が質問するということを、ボクサーが間合いをとりながらパンチするような感じでやっていると思いますが、“オンライン”は、そういうスキルが使えないので、より難しい駆け引きが必要になります。」
記事はこの学者のコメントで締めくくられる。「オンライン化したことで質問しづらくなったとすれば、それは技術のせいで、資質のせいではありません。重要なのはコミュニケーションの場をどのように設定するかです。授業をしたり会議を開いたりするいわゆるホスト側の責任が重くなっていると思います。」
その道のプロに私のようなものが楯突くのは僭越だが、私はまったく反対だと思う。つまり質問しないのは、資質のせいであり、テクノロジーのせいではない。記事でも触れられているように、オンライン授業でマイクを通して発言させようとするから質問が出てこない。しかしこれは対面の授業でもまったく同じ。人数にもよるが、私の経験では100人くらいの学生がいるなかで「質問は?」と言って、出てきたことは一度もない。そんな勇気のある学生は存在しない。日本の教育はそういうものだ。だからそれは学生の資質である。
むしろオンラインのいいところは、満座ではなく、教師に直接、匿名で質問できることである。メールやダイレクトメッセージでの質問を促せば、むしろ対面よりも双方向が可能になる。やはり同じことを考えてくれている人もいた。『高校生新聞』というサイトに「大学のオンライン授業に学生は賛否『効率よく学べる』『卒業できるか不安』」2)という記事があったが、そのなかに「チャット機能が便利! 対面講義より活発に質問や発言ができる」という見出しがあり、次のように書かれている。
「授業ごとに設けられている掲示板やZoomなどのチャット機能を使って、講義の担当教授に直接質問ができるようになっているそうです。『リアルタイム型』の[オンライン]講義では、手を挙げて発言するのではなくチャット機能に直接書き込むことで、教授がその場で書き込みに反応してくれる講義もあるようです。」
「対面の講義の場で手を挙げて発言するのは少しちゅうちょしてしまう場合もありそうですが、チャット機能に書き込むことで、質問や発言がしやすい環境になっているようですね。」
そう、これだ。
オンライン教育の必然性
改めてオンライン教育のメリットとデメリットについて考えてみたい。上記の『高校生新聞』によると、学生が挙げたメリットには「自分の生活リズムに合わせて受講できる」(オンデマンド形式)「家だからこそ 集中できて効率がよく学べる」そして既述の「チャット機能が便利! 対面講義より活発に質問や発言ができる」がある。
対するデメリットには「授業動画視聴や課題をためてしまう……メリハリが大切」「自分は4年で卒業できるの? オンライン授業では補えない不便さ」「やっぱり友達に会いたい! 普通の大学生活が恋しい」など。
『スクールIE』という学習塾のサイト3)では、メリットとして「一流講師の授業を受けられる」「時間と費用の節約になる」「離島や過疎地の学校教育の手助けになる」「災害や緊急時でも授業が受けられる」「パソコンスキルが身に付く」が挙げられており、デメリットには「通信環境に左右されうる」「学位貸与には不向きという意見もある」「健康への影響の恐れ」(視力の低下、肩こり、難聴)「目や耳の不自由な人への対応が難しい」があった。
前段落のデメリットのひとつめ「通信環境」については、いまは確かにそうだが、これはオンライン教育のデメリットというよりは通信技術の問題なので、じきに解決されるだろう。
オンライン教育を受ける側からすれば、以上のようなメリット/デメリットがあることは確かだが、社会の方向性としては、テレワークと同じように「ハイブリッド型」になるのは必然であり、部分的であれ、学校教育にオンラインは導入されていく。それを後押しするのが「学校教育の情報化の推進に関する法律」(通称「教育情報化推進法」)という法律である。そこには以下のような目的が書かれている。
第1条「この法律は、高度情報通信ネットワーク社会の発展に伴い、学校における情報通信技術の活用により学校教育が直面する課題の解決及び学校教育の一層の充実を図ることが重要となっていることに鑑み、全ての児童生徒がその状況に応じて効果的に教育を受けることができる環境の整備を図るため、学校教育の情報化の推進に関し、基本理念を定め、国、地方公共団体等の責務を明らかにし、及び学校教育の情報化の推進に関する計画の策定その他の必要な事項を定めることにより、学校教育の情報化の推進に関する施策を総合的かつ計画的に推進し、もって次代の社会を担う児童生徒の育成に資することを目的とする。」
ポイントはICT(情報通信技術)によって、①教育が直面する課題を解決し、➁教育の効率化を図り、そのために➂環境を整備し、④政府・自治体の責務を明記することである。
そして理念を定めた第3条は次のようにある。「学校教育の情報化の推進は、情報通信技術の特性を生かして、個々の児童生徒の能力、特性等に応じた教育、双方向性のある教育…等が学校の教員による適切な指導を通じて行われることにより、各教科等の指導等において、情報及び情報手段を主体的に選択し、及びこれを活用する能力の体系的な育成その他の知識及び技能の習得等…が効果的に図られるよう行われなければならない。」
ポイントは、①能力・特性に応じた教育、➁双方向の教育、➂情報と情報手段の主体的選択、④情報活用能力の育成である。
そして第3条の2項には「学校教育の情報化の推進は、デジタル教科書その他のデジタル教材を活用した学習その他の情報通信技術を活用した学習とデジタル教材以外の教材を活用した学習、体験学習等とを適切に組み合わせること等により、多様な方法による学習が推進されるよう行われなければならない」とあり、ハイブリッド型を推奨している。
この法律ができたことで、オンライン教育への道は拓かれた。あとはわれわれがそれを受け容れるかどうかである。
技術の使い方
コロナ禍が悲しい事実であるのは間違いない。なければよかったことは確かである。しかし起こってしまった以上、対処法として採用したことが、後々にまで役に立つならば、それをコロナ後も活用し続けるのは、よいことであろう。そのひとつがオンライン教育だ。
だからこれを機に、教育のあり方を根本から考え直したい。普通の対面で行われる授業風景を想像してみよう。教室内で、生徒は座って同じ方面に顔を向けて、教師だけが反対方向を向いて、立ったまま、ひとりでしゃべっている。この形態は、知識を仕入れる段階までは、有効な教育方法かもしれない。ところで、一方的に知識を植えつける段階は、いつまでだろうか。本当なら「高校まで」としたいところだが、悲しいことに、現代では「大学2年生まで」ということになろう。
では、教育の意義は何か。私は「自分で考える力を養うこと」という答えに固執したい。この回答を前提で教育の意義を再考するならば、考える力を養う最善の方法は対話形式である。もちろん前提の知識がなければならないし、現代に近づけば近づくほど、学問の進歩によって学ぶべき知識量は増えるから、知識を仕入れる年齢は高くなる。しかしいつかは対話によって、考える力を育成する時期が来なければならない。
その意味では、現在の学校制度は理にかなっているかもしれない。大学2年生までが教養課程で、3年生からゼミが始まる。自分で学び、自分でまとめて、自分で発表し、みんなで討議するというスタイルである。
コロナ禍で教育方法はどうなったか。上で紹介したように、大学におけるオンライン授業で、学生は「質問しづらい」らしい。私は今は学生を教えていないが、かつての経験をふまえ、現代の学生の気質を考慮すれば、学生が質問をしないのは授業形態の問題ではなく、あくまで学生の性格の問題だと思っている。
そしてそれも、彼らが劣るからではない。むしろ学校での「生き残り」という面では、彼らはわれわれの世代よりも優秀である。彼らが質問しないのは、大学に来るまで、質問しにくい環境で生きてきた結果でしかない。ただただ一方的に、教員の言いつけに素直に従うことだけで内申点を稼いできた習性であり、それをもって学生たちを責めることはできない。
質問しづらくしたのは教師側の責任でもある。教師が生徒に自信を与えてこなかったからであり、生徒が勇気を出して質問した時「なんでそんなこと訊くの?」という顔をしてきたからである。本来なら「それはいい質問だ!」と褒めてあげるべきだった。
もちろん的外れの質問も多いだろう。しかし、もしその質問が的外れだったならば、「素晴らしい! 素晴らしい! でも、少ーし欲を言えば、こういう観点から物を捉えるともっといい見方になる」なーんてことを言ってあげられたら、バイタリティ溢れる人材を育てられたのになぁ、とかつて大学で、目の前にいた学生を見ながら、ずっと感じていた。
授業、講義、講演の意義とはなんだろうか。学生相手ではなく、私の聴衆は企業研修の聴講生だから少し違うけれど、私は欲張りなので、聴き手の行動を変えるところまで求めたい。私の場合は学生に対する授業ではなく、社会人向けの講演だが、1時間程度の学習会で相手の考えを覆すことは不可能だろう。楽しかった、と喜んでもらうのがせいぜいのところだ。無理な理由はふたつある。
ひとつは器用な話し手は最初から聴衆の「聴きたいこと」を知っているから、その通りに話す。参加者は「聴きたいこと」を聴けたから満足して帰るが、「聴きたいこと」は所詮、最初から聴き手のなかにあることなので、講演開始時と終了時の聴き手の頭脳状態に変化はない。
もうひとつは話し手が独善的であること(えっ? 私のこと?)。講演者は自分の専門の話をするが、研究者は四六時中そのことしか考えていないから、相手もその話を知っているものと信じ切っている。聴き手の前提を理解していないので、Bという話をするためにはAについて解説しておかなければならないのに、「Aなんて知っているはず」という思い込みで話を進めてしまう。AがわからないままBの話を延々と聞かされた聴衆は白けたまま帰宅する。
両方の矛盾を解決する方法は対話型にすることだが、教師だけが立って(上から目線で)、反対を向いている非対称的な教室では双方向にすることは無理である。だからいつかコロナ禍でなくても、テクノロジーを用いた対話型が必然的な教育方法だったのではないか。
私は学校ではなく、企業研修ではあるが、半年以上、オンライン学習会を数十回も積み重ねられて得たことは、これが教育の未来形だという感触である。もちろん、世間的には「対面」にこだわる風潮は続くだろう。しかしコミュニケーションがオンライン化することが、話し手と聴き手という「非」対称的関係を平たくすることも理解すべきだ。
確かにまだオンライン学習会でも質問しづらい雰囲気はあるが、オンライン化によってふたつのことが変化している。上に挙げたように、チャット機能によって従来型より質問しやすくなった。そして意外に重要なこととして、講演者の「威圧感」が消滅した。
場数を踏んで感じたことは、対面の講演では「沈黙は禁」だが(私が間に耐えられず、しゃべり始めてしまう)、オンラインなら「待ち」として不自然でなくなる。それほど非対称関係が、一気に平坦化する。
さらに重要なのが、演説的な話し手の「オーラ」である。人間は所詮動物で、話の中身のような「理性」的な面だけでなく、むしろその人が持っている「雰囲気」や聴衆が受ける「感触」によって、講演の評価が決まってしまうことがある。これはこれで講演自体の成否には重要だが、教育的側面では意義が薄い。聴き手が圧倒されて、質問しにくくなるような講演よりは、聴き手が話しやすいオンライン車座方式のほうが、結果的には成果が大きい。
私は半年以上の濃密な経験から、チャットを使った対話に意義があると感じている。「こんなこと質問していいかな」という人は、ダイレクトメッセージを有効活用してくれる(Zoomでは私の画面に「プライベート」と表示される)。私個人に来たチャットは発信者の名前を言わなければ質問者は困らないし、私も「こういうことを話すべきだったのね」と学ぶことができる。
みんなが(そして講師の私も)自分の家かオフィスから、同じ状態でアクセスしている。同じ状態であることで、みんなが平等になり、私だけが話し手という非対称的関係が解消されて、全員が参加意識を持つことができる。
苦境(コロナ禍)を活用できるかどうかは、人間の知恵、つまり技術の使い方に帰着する。頭のいい人がせっかく開発してくれたのだ。秀逸なテクノロジーをどんどん活用しよう。
1)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201118/k10012718111000.html
2)https://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/6481
3)https://www.schoolie-net.jp/column/200727-04.php
森田浩之(モリタ・ヒロユキ)
東日本国際大学客員教授
1966年生まれ。
1991年、慶應義塾大学文学部卒業。
1996年、同法学研究科政治学専攻博士課程単位取得。
1996~1998年、University College London哲学部留学。
著書
『情報社会のコスモロジー』(日本評論社 1994年)
『社会の形而上学』(日本評論社 1998年)
『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社 1999年)
『ロールズ正義論入門』(論創社 2019年)