『コロナの倫理学』 ⑭コロナの倫理学

『コロナの倫理学』 ⑭コロナの倫理学

 

森田浩之

コロナ新段階

 

2021年5月の緊急事態宣言下の中間地点で、感染状況は新しい段階を迎えた。感染力が強く、重症化しやすい変異ウイルスの登場である。NHK NEWS WEB(2021年5月12日)は「1人ランチでも感染?変異ウイルスどうしたら…」1)という記事で、ある医師の言葉を引用する。「これまでは頻繁に会食をした人など感染対策が十分でなかったと思われる人が陽性になることが多かったのですが、最近では『どこで感染したのか全く心当たりがない』という人の感染が目立ちます」と。そして「例えば、リモートワークで出勤は一切しておらず外出は1人でランチをしにカフェに出かけただけ。店内でも、ほかの客とは距離をとって座っていたのに感染したという人もいたそうです」との説明。だとしたら、私も危ない。

 

若者の感染も目立っており、NHK NEWS WEB(2021年5月13日)は「新型コロナ 30代感染者が語る 感染力の強さと症状悪化の不安」2)という記事で、感染者にインタビューしているが、その患者さんは「同僚とは屋内の喫煙室で一度、5分ほど会話をしただけで、窓も開いていて、換気もされていたということで、男性は『仕事と家の往復だけで、消毒を徹底し、不要不急な外出をしていなくても感染してしまい、驚きとともに恐怖を感じました』と、感染が分かったときの心境を振り返りました」とのこと。

 

これらよりも少し前だが、3密でなくても集団感染が起こるという報道があった。NHK NEWS WEB(2021年4月30日)は「『3密』でなくても集団感染のおそれ」3)という記事で、「屋外での飲食で密閉という条件がないなど、『3密』ではなくても感染が広がったとみられるケースの報告が相次いでいます。感染力が強い変異ウイルスの拡大でさらに広がるおそれもあり、専門家は『2密』『1密』であっても感染すると考え、対策を徹底してほしいと呼びかけています」と警告する。

 

河原での飲み会のケースでは「調査した保健所によりますと変異ウイルスではなかったものの、多数が集まる『密集』と、近くで会話する『密接』の2つの条件があり、感染が広がったものとみています」と。

 

「密閉」空間で稽古していた劇団関係者で集団感染が起こった事例では「全員がマスクを着用し、稽古も2メートル以上の間隔を空けて行っていて、『3密』のうち、『密閉』の条件しかありませんでしたが、ほとんどの感染者がほかに接点がなかったことから、保健所は稽古を通じて感染したとみています」という。

 

記事からは具体的状況は想像するしかないが、稽古によっては、息遣いが激しくなることも考えられ、呼吸の際に飛沫がマスクの端から漏れたとすれば、実質的には「密閉」と「密着」(近い距離での会話)と似たような場面と考えてよいだろう。だがマスクを外して話し込んだわけでもないのにクラスターが発生するとの話は衝撃的である。

 

これら新しい段階に入って、20代、30代で亡くなる人も出てきた。そのひとつの記事は次のように説明しているが、記事の最後に引用された看護師の言葉が印象的だった。NHK NEWS WEB(2021年5月12日)は「神戸市 新型コロナ 20代女性と30代男性死亡 30代以下は初めて」4)という見出しで、「神戸市は、新型コロナウイルスに感染した20代の女性と30代の男性が亡くなったと発表しました。神戸市で30代以下の患者の死亡が発表されるのは初めてで、市は変異ウイルスの拡大で若い世代の重症化リスクが高まっているとして注意を呼びかけています」と報じたが、30代の男性を担当した看護師は次のように述べている。

 

「自分のやってることに意味があるのだろうかと思うし、握りしめても握りしめても指の隙間から命がこぼれ出ていく、そんな経験だった。なぜ入院治療が受けられないのか、なぜ死ななければならなかったのかと聞かれても、何も返せない。同じことが繰り返されなければいいと思う。」

 

孤独に耐える

 

ここまでいろいろな記事(大半はNHK NEWS WEBだが)を引用し、私のコロナ観がそれなりのエビデンスに基づいていることを示そうと努力してきた。自称“コロナ・オタク”になってから14か月、毎日毎日、たくさんの記事を追いかけてきたが、実際にこれら一連の文章を書き始めたのは2021年4月の後半になってからである。だから、それまでの1年以上のあいだに、自分のコロナ観を形成してきた記事、論文、学会報告、政府の提言を無数に読んできたけれど、書き始めて以降、すべてが思い出せているわけではない。

 

反対に、強烈な印象として心に焼きつけられているものの、その元記事(元動画)を思い出せない、または検索しても見つからないこともあった。そのひとつがニューヨークの状況である。ニューヨークは世界的にも早い段階で修羅場を経験したが、そこの病院の様子をアメリカのABCテレビが追跡したドキュメンタリーがあった。私は2020年4月頃YouTubeで見たが、今回、イタリアを扱った別のドキュメンタリーは探せたが、ABCのニューヨーク病院レポートは発見できなかった。

 

これはニューヨークの病院で奮闘する医師を追ったもので、帰宅の際、家にウイルスを持ち込まないための周到な対策まで細かく映し出されていたし、その後の家族との食事の風景まで捉えていたので、感染を人間ドラマとして描くことに成功していた。

 

一方、日本は差別のせいか、医師や看護師が素顔ではカメラの前に出てこないし、インタビューでも匿名のままである。感染状況が人間味とともに報道されていたら、もう少し身近に感じられたのになぁ、と悔やまれる。

 

これら私のコロナ観を構築してくれた各記事の最後にご紹介したいのが、2020年5月の伝言板の話である。ただしポイントは伝言板自体ではない。この話は私が日々、依拠しているNHK NEWS WEB以外でも報じられて、当時は話題になった。私の知るところでは、朝日新聞(2020年5月6日)で「旅行ポスターはがし『伝言板』を復活 24歳駅員の思い」5)、毎日新聞(2020年5月8日)で「改札前に復活した伝言板が人気 コロナ禍の中、乗降客が思い思いにチョーク握る」6)、東京新聞(2020年5月26日)で「<新型コロナ>心つなぐ伝言板復活 JR東神奈川、駅員手作り」7)という見出しで紹介された。

 

このうち毎日新聞は記事の冒頭で次のように説明する。「あなたの伝えたい思いを書いてください――。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う休校や外出自粛が長引く中、少しでも明るい気持ちになってもらおうと、横浜市神奈川区のJR東神奈川駅に伝言板が設けられている。」

 

私は最初、このニュースをNHK NEWS WEBで知ったが、私のポイントは伝言板ではない。同サイト(2020年6月13日)の「駅の伝言板 コロナで復活 つづられた“不自由な生活”への思い」8)と題する記事は、上記の各紙と同様に「新型コロナウイルスの影響で外出自粛が続いていましたが、神奈川県の駅では、携帯電話が普及していなかった時代に活躍した『手書きの伝言板』が復活し、不自由な生活で感じた寂しさや苦しさ、励まし合う声などがつづられています」と書き始める。

 

この記事の真ん中でNHKは駅利用者にインタビューする。「伝言板の前でじっとたたずむ女性がいました」と。そして次のように続く。

 

 ≪「『大変なときにインフラを守ってくれてありがとう』って書かせてもらいました。私は会社員なので在宅勤務ができているんですけど、1か月ぶりに病院に来なくちゃいけなくて、(鉄道を)守ってくれてる人がいるっていうのがありがたいなって思って」

こう話してくれたあと、

「ちょっと、もう限界。3か月引きこもっているので。ごめんなさい」。

今の生活は想像以上につらいと、涙ながらに話してくれました。≫

 

私はこの部分の印象があまりにも強烈だったから、それで伝言板のことを鮮明に憶えている。私も思わず、もらい泣き、というか、少し涙腺が緩んでしまったが、同時に、本当に申し訳ないけれど、「ごめんなさい。それでも、孤独に耐えてください。人の命には代えられません」と言わなければならない。

 

このエピソードは過去11か月間、断続的にフラッシュバックしていた。行きつけの店で3~4人のグループが談笑しているのを見るたびに、心のなかで「たいへんですけど、独りで行動してください」と叫び続けてきた。

 

それでもなかなか人が独りになれないエピソードを紹介したい。前項で変異ウイルスについて紹介したが、まさにそんな記事を山のように読み耽っている最中、近親者の家で次のようなことがあった。

 

私は高齢の近親者の家に数日に一度くらい顔を出すようにしている。年齢は80代後半で、5~6年前に心不全と肺炎で手術や入院をくり返して、やっとこの数年で健康を取り戻している。コロナ以降、人との接触が減ったから激励の意味で頻繁に訪れるようにしているが、私はもちろんマスクを外すことなく、できるだけ数分でお暇するようにしている。マスクをしていても話せば、飛沫はマスクの隙間から漏れるし、もし私の靴下の裏にウイルスがついていたら、それをその近親者の家にばら撒いてしまう。

 

これだけ私が気をつけているのに、なんと、その肺炎病みの高齢者は自宅に知人を招こうとしていた。そこは賃貸マンションで、6畳の部屋が3つというこぢんまりとしたところで、もしそこにお客さんが来たら、閉め切った6畳の一室に全員が詰め込まれることになる。私が愕然としたのは、ただでさえ自宅に人を呼んではいけないのに、なんとなんと、そこに3人も来るというのである。その近親者と大人3人、合計4人が6畳に入るのだが、そこは書斎であり、すでに空間の半分以上が物・物・物で占有されている。ということは、もし本当に3人が来ていたら、4人は顔と顔の距離が1メートル以内で、これまた驚くことに1時間も会話することになる。

 

もし「マスクをしているから大丈夫」と強弁するなら、マスクから漏れる飛沫について解説してあげたい。上で紹介した記事のように、「3密」でなく「2密」や「1密」でもクラスターが発生することをお知らせしたい。私は、本当に、本当に偶然、当日、それら無礼な客が来る前に、その近親者の家に行き、いつもと違って、きれいに片づいているので「おかしい」と思い、たずねてみると、そういうことだった。私は反射的に「私は絶対にそんなことは認めない!」と叫んだ。

 

ここで小休止。というのも、ここが分かれ目だと思うから。つまりこの場面で私のように怒り狂うか、それとも「これの何が悪いの?」と平然と見過ごせるかの違いだ。その無礼な訪問者は、私の近親者が数年前に虚血性心不全(狭心症)で手術をしたことは知っている。さらにその後、肺炎で数回入院したことも知っているはずだ。それでもその人を含めて、この高齢者の家に3人で訪れようとした人をどう見るのかということである。私はそれを一度は受け入れようとしたその近親者に対しては怒りというよりは、呆れるという気持ちのほうが強い。しかし訪問者のほうには、押し留めるが困難なほどの怒りを感じている。

 

なぜダメなのか。問題は、この3人の訪問者の全員がウイルスを持っていなければ、禁止する必要などないことである。しかしやはり問題は、それをだれも知らないことである。確認すれば、ある人がウイルスを持っている人と濃厚接触したとしよう。ここでウイルスを受け取ってしまったとしても、発症するまでは5~6日かかる。

 

しかしウイルスをのどに含み込んでしまった瞬間から、ウイルスは人間の細胞を材料に、自分の遺伝子をどんどんコピーしていく。それまで人間の身体の一部だった細胞にウイルスの遺伝子が転写されることで、その細胞がウイルスに変身してしまうのである。そしてウイルスをもらってから2日目に、ウイルス量は最大になる。しかし発症まではまだ3~4日あるから、本人は気づかない。そして気づかないまま、別のだれかと濃厚接触して、そのウイルスを別の人に渡してしまう。

 

6畳の狭い部屋に3人押しかけて4人で話をする。半分以上は物で占められているので、1メートル四方のさらに狭まった空間に大人が4人、顔を突き合わせる。マスクをしていても話せば、マスクの隙間から飛沫は漏れる。1時間の会合を予定していたというから、マスク着用でも、充分「濃厚接触」に相当する。

 

私はそれを聞いた時、「絶対に認めない!」とくり返し、せめて近くのホテルのラウンジを使えと命じた。しかし本当なら、せめて訪問者は2人にして、合計3人以下で会合すべきである。

 

私は緊急事態宣言下では、会合自体を止めるべきだと思うが、どうしても、と言うなら、訪問者は1人で合計2人まで。それも広いテーブルに斜め向かいに座るなら、不承不承、認めてもいい。訪問者2人に迎えるほう1人の合計3人は禁止したいが、ここまでなら、仕方なく見て見ぬふりはできる。迎える側に対して、訪問者2人が正面と斜め向かいになるからである。

 

しかし訪問者3人は絶対に、絶対に、何があってもダメ。というのも4人になれば、話し手の隣りに人が来るが、そうすると横どうしが話す場面が出てくる。横の人に向かう飛沫は、向かいに座る人に行く飛沫の5倍であることは、すでに以前紹介している9)。私に言わせれば、3人のゲストを迎える肺炎病みの高齢者は自殺行為をしているとしか思えない。

 

コロナ禍の行動規範

 

こういう愚かな行為が日常茶飯事で、それで感染者が減らず、そして感染者が減らないことを政府の責任にしているとしたら、私は言いたい。「そういうあなた方が間違っている!」と。そう、肺炎病みの高齢者が6畳の閉め切った自室に3人の大人を迎え入れることは、端的に間違っている。こういう行為を「間違い」と怒れるかどうかが、コロナ禍を生き抜く行動規範の根底にあるべきだ。それは他人に向かうと同時に、自分にも向かう。自分に向かえば、危険な場面を避けるから、それをみんなが実行すれば、ウイルスは2週間も経てば、すべてトイレに流れていく。それが最善のシナリオだ。

 

コロナの問題が政治の領域で議論され、対応されていることが悲劇の源である。本来なら、ひとりひとりが実行すれば、こんな大惨事にはならなかった。そしてそれがむずかしい、というよりも不可能だから、飲食店や商業施設が休業しなければならず、経済を疲弊させ、たくさんの所得を減らして、多くの職を失わせた。これはひとりひとりの愚かさが原因である。マスクを外して酔った勢いで、大声で叫ぶから感染が拡大し、それで、まさにその人たちが依存していた飲食店を潰している。

 

これは政治問題ではない。ひとりひとりの行動規範の問題である。みずからの行動規範を顧みて、戒めて、自省する行為を〈倫理〉と名づけるならば、以前述べたように、いまは〈倫理〉が破綻した状態である。そして〈倫理〉が破綻した状況下で医療崩壊を防ぐために、政府が強権を発動しようとしている。愚民がわざわざ自由を放棄して、不要な権力を国家に与えようとしている。

 

このように考察していくと、倫理(以下〈 〉なしだが、すべて「みずからの行動規範」の意)の基礎にあるのは、実は理性ではなく、感情ではないかと思えてくる。その怒りを正当化して、他人に説明するためには理屈は必要だが、根源それ自体はエモーショナルなものではないだろうか。怒りを怒りのままぶつけたら、だれも動かないし、納得しないから、他人が把握できる形態としては、倫理は理性的なものになる。

 

しかしある人が最初に感じる倫理は感情である。その怒りを他人に説明して、行動を変えてもらうためには、冷静になって「なぜそうでなければならないのか」を丁寧に説明しなければならない。怒りをぶつけただけでは相手は反発するから、反発を引き起こさないように、冷静に、沈着に、理路整然と、理由を述べなければならない。だから倫理が根底では感情に基づいているとしても、倫理の具体的形態は理性である。日本語では「理由」と「理性」と別の言葉だが、英語では「reason」のひとつであるから、英語的に言えば、倫理は「reason」だ。日本語に言い換えるならば、倫理は理由を与えることであり、理性でなければならない。

 

コロナの場合「理由」になるのがウイルスの知識であり、「どうしてそうでなければならないのか」という理由を説明する際の態度が「理性」である。この「理性」は、個々の知識をつなげる論理のこと。そしてその知識と論理の根底に、だれもが否定できない共通了解がある。「人の命」だ。

 

問題は、パーセンテージで見ると、感染と「人の命」が直線で結びつかないこと。身近に感染者がいないから、ウイルスの怖さが理解できず、だからウイルスと死が同じ平面に位置づけられていない。ふたつが別次元にあるかぎり、「人の命を救うために、人との接触を減らす」という関係性が頭のなかに定着しないから、これらを結びつける触媒として「感情」が必要になる。

 

ウイルスと死を直接的に結びつけるには「個人化」と「因果関係」が不可欠だ。「個人化」とは自分のこととして捉えること。この場合は、感染で「自分が」または「家族が」重症化するか、死ぬかということ。「因果関係」は、感染から重症化または死に向かう具体的な経路が鮮明に想い浮かぶかどうか。これらふたつともが、とてもむずかしい。

 

というのも、くり返すが、パーセンテージでは「自分が」感染する確率は凄く小さいので、「自分が」感染するかもしれないから「自分が」気をつけるという動機を持ちにくい。そして「自分が」こういう場面で感染しやすいから「そういう場面を避けよう」という想定しやすいシナリオが描きにくいため(「自分」の感染リスクが低いから)、「感染→死」という流れを「自分のこと」として受け止められない。ゆえに感染対策を怠る。

 

ところが、ここまで「人間は愚か」という論理を積み重ねておいて、自分でひっくり返すならば、人間は意外に普遍化した原理に基づいて行動するのではないか。いまの政府は「若者でも重症化したり、後遺症が残る」という理屈で攻める。「あなたにもリスクがあるから気をつけなさい」と。しかし大半の若者はマスクなし徹夜飲み会をしても感染していないから、「大丈夫じゃん」と思う。

 

ではなく、どう行動することが「正しい」ことで、どう行動することが「間違っている」のかという普遍化した立場から語るのも、一つの手ではないか。「あなたを見過ごしたら、ほかのみんなを見過ごさなければならない。というのも、あなただけを特別扱いする論拠を見つけられないから(見つけられるなら、言ってごらん)」ゆえに、みんなとの平等性・公平性の観点から「マスクなし飲み会はやめて欲しい」と。

 

「あなたにもリスクがある」というのは損か得かの理屈だ。むしろ「正しい」か「間違っている」かという視点を持ってくるべきだろう。そして「正」「誤」は表面上は理性や論理の世界に属するが、根底には間違っている物事に対する怒りという感情がある。この感情を刺激する方法が思いつけば、コロナ論議をまともな方向に持っていけるかもしれない。

 

所詮、哲学書しか読まない変人の戯言だ。人に「倫理の感覚」なんてものがあると本気で信じているのだから。でも「あなたにリスクがある」という理屈が破綻していることは確かだ。感染の確率が低いから「自分」と「感染」が直線で結びつかず、「自分が重症化する」という因果的なシナリオが思い浮かばないから。ならば、一か八か、倫理観に訴える方法を試してもいいのではないか。

 

 

1)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210512/k10013025561000.html?utm_int=news_contents_netnewsup_001

2)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210513/k10013029001000.html

3)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210430/k10013006461000.html

4)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210512/k10013026981000.html

5)https://www.asahi.com/articles/ASN5601BZN54ULOB00K.html

6)https://mainichi.jp/articles/20200507/k00/00m/040/216000c

7)https://www.tokyo-np.co.jp/article/16632

8)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200613/k10012469781000.html

9)https://www.asahi.com/articles/ASNBF6FD3NBFPLBJ002.html

 

 

森田浩之(モリタ・ヒロユキ)

東日本国際大学客員教授

1966年生まれ。

1991年、慶應義塾大学文学部卒業。

1996年、同法学研究科政治学専攻博士課程単位取得。

1996~1998年、University College London哲学部留学。

著書

『情報社会のコスモロジー』(日本評論社 1994年)

『社会の形而上学』(日本評論社 1998年)

『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社 1999年)

『ロールズ正義論入門』(論創社 2019年)

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