はじめに
——日蓮は、一二二二(承久四)年二月十六日、安房国の東条郷(千葉県鴨川市)の漁村で誕生しました。父は貫名重忠、母は梅菊。「日蓮は、安房国・東条・片海の石中の賤民が子なり」、「海辺の旋陀羅が子なり」、「東条郷・片海の海人が子なり」と述べているので、漁師の子か漁村の役人の子です。
幼いころから頭脳明晰で、両親は日蓮を出家させ、京都などに遊学させました。当時の仏教をすべて学んだ日蓮は、「南無妙法蓮華経」と唱えれば誰でも成仏できる、と悟ります。安房に戻り、一二五三(建長五)年四月二十八日、清澄寺でこの教えを説き始めました。
ところが、この教えは念仏を唱える人々からの激しい反発を受けます。安房から逃れた日蓮は鎌倉でこの教えを広め、幕府にも「立正安国論」を書き送り、正しい教えに帰依するように迫りました。しかし鎌倉でも日蓮は弾圧され、一二六一(弘長元)年には伊豆に、一二七一(文永八)年には佐渡に流罪されます。佐渡に流される前には斬首されそうにもなりました。
一二七四(文永十一)年に赦免された日蓮は再び幕府を諫めますが、聞き入れられないと身延山に移り住み、約八年間、数多くの弟子や門下の育成につとめました。やがて体調を崩した日蓮は常陸の国に向かう途中、一二八二(弘安五)年十月十三日に池上の地(東京都大田区)で六〇年の生涯を閉じました——
以上が、一般に知られている日蓮の略歴です。しかし、ここで二つの大きな疑問にぶつかります。一つは、日蓮は本当に「賤民の子」と自称するような一介の貧しい漁師や役人の子なのだろうか、という点です。
当時は現在と比較できない階級社会です。有力な御家人でさえ文字の読み書きには不便をし、京から公家の家臣を抱えています。当然、漁民・農民に文字の素養はありません。出家など論外です。そうしたなか日蓮が万が一にも出家できたとして、そんな無名の僧をなぜ幕府は二度までも流罪にする必要があったのか。流罪にするということは、幕府がその影響力を認め、政治的に処分したということです。しかも、流罪によって日蓮は教説を改めてはいません。にもかかわらず、幕府は二度とも赦免しています。これは、幕府にとって日蓮の教えが問題だったのではない、ということを示しています。日蓮が考えを改めないのに幕府が赦すということは、流罪した理由も、赦免した理由も教説以外にあったはずなのです。その理由は、実は日蓮とその一門が持つ政治力だったのではないか。だとすれば、日蓮は自称するような無名の家の出ではなかったのではないか。これが第一の疑問です。
もう一つは、幕府から弾圧を受けながらも日蓮が広めようとした「南無妙法蓮華経」とは何なのか。さらに日蓮が書き表した「南無妙法蓮華経」の曼荼羅は、どういう意味を持つのか。そもそも日蓮は何を目指していたのか。日蓮は日本仏教の宗派教祖の中で、唯一、関東出身の僧です。そして宗派名に教祖の名前を持つのも、唯一、日蓮宗だけです。武家政権が上皇・天皇を流罪にし、蒙古が襲来するという前代未聞の時代に、日蓮という強烈な個性に引き寄せられた一門が度重なる弾圧に屈せずに貫こうとした信仰とは、いったいどのようなものだったのか。後世が加えた上書きを消すと、どういう信仰の原形が現れるのか。その信仰は、当時の幕政とどのようなかかわりを持つのか。これが第二の疑問です。
本書に収録した論考は、この二つの疑問から出発し、それに答えを出そうとしたものです。結論は、冒頭で紹介したこれまでの日蓮像とは随分かけ離れたものになりました。と同時に、学術的な日蓮研究は新たな鎌倉史を拓く可能性があることも示せたのではないかと思います。
各論考について紹介します。「Ⅰ 日蓮の出自について」、「Ⅱ 日蓮と将軍家」は初めて発表するものです。「Ⅲ 日蓮と政治」は二〇一六年『法然思想』四号(草愚舎)に掲載しました。不十分な考察もそのまま残し、最少の改訂に留め再録しました。「Ⅳ 日蓮仏法論」は二〇一六年から翌年に掛けて論創社ホームページ「論創通信」に「ミステリーな日蓮」として連載したものです。新たに注記を付しました。
—次回11月1日公開—