- 2024-8-23
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No.88『老作家僧チェンマイ托鉢百景』
矢口英佑
本書の著者は笹倉明だが、1989年に『遠い国からの殺人者』で第101回直木賞を受賞した作家ということを記憶しているなら本書の表題に見える〝老作家〟は理解できるだろう。しかし、そのあとに〝僧〟〝チェンマイ〟〝托鉢〟と続くと、表題の迷路に紛れ込んだような感覚にとらわれるかもしれない。
そこで、本書表題については著者の言葉を借りることにする。
「出家に至る過程やその動機において、決して褒められたものでも、自慢できるようなものでもない。はっきりいって、異国へ落ち延びた落人作家であり、まさに駆け込み寺としてあったのがチェンマイの古寺であったのです」(「まえがき」)
尾羽打ち枯らし、生きる術を失い、思いあぐねてみずからの命を絶とうとまで追い込まれた著者が出したみずからへの回答は異国のタイへの逃避行であり、世捨て人となる覚悟だったのである。
なぜこのようなことになってしまったのか。
出家に至るまでの話は『ブッダのお弟子さん、にっぽん哀楽遊行』(佼成出版社 2023年11月刊)に書き、「十分に恥をかいた」として、本書では割愛しているとしている。しかし、著者自身のおのれとの対話が本書の柱となっているだけに、出家以前の過ぎ越し方がさまざまな色合いで挟み込まれている。
数知れず繰り返されたにちがいないおのれとの対話の結果は、自己の内奥を冷静に、そして客観的に見る境地に著者をいざなっていったようである。なぜなら、なぜ出家するに至ったのか、著者自身による明晰な分析となっているからである。
「わが人生そのものを振り返ってみると、やはりこの歳まで生き延びてきたのが奇跡的、というのが実感です。(中略)人の栄枯盛衰、盛者必衰の理といってしまえばそれまでだけれど(中略)平家の落人をその典型例としてみると、我もまた現代の落人作家、それも海外へと落ちて、さらにその地で出家するという、二重の流転を体験した者として、生き延びるということにはとりわけの感慨があります」(あとがき)
著者が繰り返す〝生き延びる〟という表現には、言うまでもないが、単純に食べる術を手にできたということではない。出家し、仏陀の教えに導かれて心の安らぎを得て、何ごとも仏道を実践し、仏法に身をゆだねて安定した心を持てるようになった思いこそがこの言葉には込められている。
だからこそ著者は次のように正直に記すことができるのだろう。
「人間関係のむずかしさはよく云々されるけれど、いっぱしの賞を得てからの我は、やわな性格が災いしてか、体よく利用されたり、うまい話に取り込まれたり、さんざんな目に遭ってきました。商売人の息子なら備わるようなしたたかさもなく、両親が教師という、とりわけ母親の並外れたやさしさを身に受けて育った子供は、人の世のきびしさ、怖さといったものに鈍感であったのでしょう。気がつくと膨大な時間とカネを無駄にして、果ては海外へ経済難民として落ちていかざるを得ない状況に陥っていました。もう少しかしこく、他人の影響を最小限にとどめて自己を律する生き方ができていれば、私生活上の問題がどうであれ、日本という故国で健在できたはずだという思いは、かろうじて異国で生き延びている頃から始まって、出家してからもしばらくは悔いとなって残っていたのです」(「あとがき」)
しかし、出家して数年後、寺の副住職(当時)と日本への旅をした頃から「それまでの後悔は無益なものとして葬るべきであると同時に、いまこの日、この時からが新しい始まり」という認識に至ったというのである。こうして著者の笹倉明こと「プラ・アキラ・アマロー」はこう語りかけるのである。
「人生の因果は一筋縄ではいかない、転変きわまりないといってよく、無情は「苦」であるけれども絶望する必要などまったくない。いま生きてあるかぎり、死を免れている以上、明日には好転する可能性があることもわかっておく必要がある。そうした自覚のおかげで自死を免れて生きてきたことも、出家してトクと認識したことなのです」
本書はタイのチェンマイにあるパーンピン寺の所属僧としての2023年7月17日から10月29日までの日記であり、生活記録である(8月2日から10月29日までは〝カオ・パンサー(雨安居入り)〟と呼ばれる修行期間)。
その日の天気、仏教行事の有無、みずからの体調、はだしで托鉢して歩く街や人びとの様子などが記されている。俗世とは隔絶された寺院での日々の生活記録であり、世の中の喧騒とは無縁の静謐な、読経と沈思黙考が繰り返される空間がそこにはある。変化の少ない、単調な日々の記録と言えばそうなのかもしれない。
しかし、本書を読み進めればすぐ気がつくのだが、出家するまでの著者の過去と、その変転、さらには〝生き延びて〟いまある著者、それらが日々の語りの中に織り込まれている。それらの語りにはおのずとブッダに従う思いが滲み出ており、それだけに「この世にあって生きるとはどういうことなのか」といった人間であるかぎり、必ず思い悩むはずの問いに対してすべて著者自身の過ぎ越し方に照射して語られている。結果として、それらの言葉は紛れもなく人間論となっているのである。
しかも著者には仏法を説き聞かせようなどという意図は微塵もない。あるのは老境に入った一人の僧侶がその時々の事象への対応と想い、そして、この世での身の置き方であり、終末までのおのれの処し方である。単調な日々の記録に映る本書のその向こうから明瞭に見えてくるのは、著者の体験に基づいた平明な仏法書、人間としての生き方の指南書となっていることである。
著者は遠慮深げにこう記している。
「人生は「苦」に覆われている(一切皆苦)というブッダの教えからすれば、勝ち組などというコトバ自体が意味をなさなくなってしまう。たとえ恵まれたサラリーマンの時代を過ごした人でも、定年後の人生はどうなっていくのか、最後まで何の問題もなく生きていける人など、めったにいない、という気がします。その意味では、およその人にとって、おもしろい読み物になるかもしれない」(「あとがき」)
もう一点、本書の興味深い特色は、仏教国としてのタイ、仏教を信じ、それを生きる支柱としているタイの人びと、その人情、ひるがえって日本の姿、日本人の生き方が映し出されていることだろう。本書では日本および日本人への警鐘を込めたタイと日本の比較文化論が展開されていることも見逃してはならないだろう。
(やぐち・えいすけ)
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