『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.018

Ⅲ 日蓮と政治

 

はじめに

 

鎌倉期の日蓮研究には、大別して二つの視点が想定される。一つは、主に教義・教理を中心にした宗教学ないし思想史的な視点、あと一つは門弟を含め、教団の運動や政治動態に焦点を当てた歴史学もしくは政治史的なそれである。

 

日蓮は、「立正安国論」を上申して時の執権政治を諫め、一方、幕府からは二度の流罪に象徴されるような政治的圧迫を受けているのであり、日蓮研究にとって、幕政との関係の考察は必要である。その意味で、日蓮と門弟の人的ネットワークとその宗教意識から、日蓮と教団を幕政との関連を含めて論じた高木豊氏の『日蓮とその門弟』(弘文堂、一九六五)は貴重である。それ以前の研究史は同書を参照されたい。

 

その後、近年における日蓮研究の成果として、中尾堯氏の『日蓮』(吉川弘文館、二〇〇一)、佐藤弘夫氏の『日蓮』(ミネルヴァ書房、二〇〇三)、小松邦彰氏らの編著による『シリーズ日蓮』(春秋社、二〇一四・五)などがあるが、日蓮と教団の政治動態そのものを考察しようとしたものではない。また、政治史の論考で比較的新しいものに本郷和人氏の『新・中世王権論』(新人物往来社、二〇〇四)、細川重男氏の『北条氏と鎌倉幕府』(講談社選書メチエ、二〇一一)などがある。しかし、これも日蓮の動きを追ったものではない。

 

そこで本論では、政治と教義の二つの視点を踏まえ、日蓮と教団の動向を見てみる。当時の政治状況を勘案しつつ門下の政治的立場、日蓮の教説がもつ政治的な意味を分析し、教団と執権政治の関わりについて考察する。二つの視点を持つことで、日蓮と幕政との関わりをより重層的に俯瞰し、新たな日蓮像を提示したい。

 

日蓮教団の政治的立場

 

日蓮と門下の階層

日蓮は安房国長狭郡東条郷の片海に生れた。この地の中心は、源頼朝が平家を下した戦勝記念として伊勢神宮に寄進した東条御厨である。日蓮の出自については、日蓮が「旃陀羅が子」と自称していること以外、詳しいことは分からない。しかし、この日蓮の自称をそのままは首肯し難い。そもそも「旃陀羅」などその身を卑下する自称は、「糞嚢に金を包む」などの対比と同様の文脈で用いられ、はかない凡身が無上の法華経を持つ悦びを表明する場合に限られているのである。

 

社会階層が固定された時代において、文字の素養も当然、出自と無関係ではなかろう。地頭御家人に文盲がいた時代である。土地や領主に付属し、売買の対象ともされた庶民(下人・所従・田夫)に文字の素養はない。高木氏は、日蓮は荘官層の出であろうと推測し、日蓮の幼時に乳母が存在したことを指摘されたが、漁事・海事に関心を寄せ、下人や銭貨の使用に慣れ、名馬や名刀を愛でる態様も、領家ないし御家人の被官層にふさわしい。日蓮が書簡で出自に触れないのは、当時の門下にとってそれが自明であったからであろう。

 

一方、日蓮の弟子も由緒正しい血筋のものたちである。日昭は藤原一族の伊東氏で、工藤祐経の孫であり、日朗も清和源氏の流れを引く平賀氏である。いずれも所伝だが、日昭が材木座の祐経邸跡に実相寺を創建し墓所を留め、日朗が平賀邸跡に本土寺を創建した点は重く見ていい。高木氏は、日興が大宅氏の流れにあるとされた。仏法が鎮護国家の責務を担い、その修得が最上の教養であった当時、出家には特段の素養を求められた結果にちがいない。

 

では、日蓮の檀那はどのような社会階層にあったのか。それを示す一例として、まず日蓮の書簡をみたい。日蓮が漢文書簡を送ったと判明する檀那は、池上宗仲、富木常忍、太田乗明、曾谷教信、波木井三郎、大学三郎、妙一尼の七名である。得宗被官であったが東国武家の南条時光や、やはり武家の四条金吾に漢文書簡は送っていない。七名は漢文を読みこなせたのであり、その高い教養からは貴族の血筋が想定されよう。

 

また、弟子の日興は、日蓮の葬送を書き残している。それによれば葬列の次第は、棺に近い者から、源内三郎、大学三郎、富田四郎太郎、大学亮、南条時光、太田乗明、富木常忍、四条金吾、池上宗仲、四郎次郎、二郎三郎の順になる。筆頭の源内三郎を日興は「御所御中間」と記し、末の二郎三郎を「鎌倉の住人」とすることから、身分によった序列とみていい。将軍御所の在勤者が葬列を飾っており、日蓮と将軍家との有縁が推察される。源内三郎自身は、将軍家の使者であろう。

 

源内三郎に続く大学三郎は、乳母として配流中の源頼朝を支えた比企尼の孫で、その家督を継いだ比企能本である。南条は得宗被官であり、太田乗明は初代問注所執事を務めた三善康信の孫である。そう考えて序列に矛盾はない。また、富木は千葉氏の被官で貴族出身の官僚であり、池上宗仲は、藤原氏の出で作事奉行と伝えられる。名越光時、親時の重臣であった四条頼基の序列は低い。光時は、千葉氏、三浦氏などの名だたる豪族御家人や評定衆を従え、前将軍頼経を担いでクーデターを起こし、北条時頼と執権職を争った人物である。また光時の嫡子・親時は将軍惟康の近臣で、頼基は親時の御所出仕に供奉していた。その頼基が檀那の下位にあった事実は、源内三郎の存在と併せ考えて日蓮門下の社会階層を知る上で示唆に富む。

 

さらに、日蓮が赦免されて佐渡から鎌倉に向かう際、善光寺の僧徒らが日蓮の斬首を謀ったが、越後守(金沢実時)の数多くの衛兵が日蓮を護衛していたので、僧徒らは手出しができなかったと日蓮自身が誇ってもいる。

 

このような門下らの庇護によって運営される日蓮の教団は、後に身延山に一〇〇人を超える弟子らを抱え、五〇〇畳を超す大坊を建設するなど、経済的にも安定していた。日蓮の遺物も馬六頭、銭二六貫文、小袖一八着等あり、やはり有力御家人に比せるものだろう。しかも教団は、執権政体と同様、御家人と法曹官僚の二者によって支えられ、その子息を弟子として取り込んでいた。時の政権が、このような教団をある種の政治勢力と認識し、その動向を注視していたであろうことは想像に難くない。

 

出自についても、日蓮が東条御厨の出身である誇りを再三強調し、頼朝に対する親近感を表白している点は重要である。先に見たように日蓮の門下には、将軍家と近かった名門の血筋が多い。比企氏、三善氏、伊東(工藤)氏、平賀氏、さらに日蓮自身が千葉氏の九代目当主・宗胤の幼少時に本尊を送っており、千葉氏との並々ならぬ関係も伺えるのである。日蓮の弟子は、その布教を自らの血縁を中心に行っている。日昭や日朗、日興の教線は、三人の血縁と不可分の関係にある。日蓮の教線も、日蓮自身の血縁から伸びたものとみて間違いなかろう。

 

 

—次回4月1日公開—

 

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