Ⅲ 日蓮と政治
日蓮仏法の政治性
熱原法難と「日蓮一門」の強調
身延入山後の一二七九(弘安二)年、熱原地方で農民信徒への弾圧が発生した。日蓮は、門弟の暴走による不測の事態を恐れ、早期の解決を第一として訴訟指揮にあたる一方、門下には団結を説く。「日蓮一門」の強調である。
法華経信仰は、理論的には一人でも可能なはずである。文永年間には弾圧の激しさから、日蓮を離れて法華経を信仰しようとする者が現れた。しかしそうした者に対する日蓮の批判は「念仏者よりも久しく阿鼻地獄に入る」と激烈である。法華経信仰が日蓮の教説の根本ならば、日蓮から離れても信仰を貫くとする者を日蓮が非難する理由はない。ところが日蓮は、時にかなった修行でなければ法華経を信仰したことにはならないと述べ、現在における法華経の行者は日蓮以外にない主張とする。これは端的に日蓮を根本とせよということであり、日蓮とともに生きる以外に法華経信仰は成立しないことになる。日蓮における「一門」の強調は、単に門下の団結を意図したものではなく、信仰の根幹に関わる問題だった。日蓮を中尊に配した曼荼羅は、まさに「法華弘通の旗印」だったのである。
結局、熱原の農民信徒は斬首されるのだが、その際、日蓮門下に対して頼綱らは、法華経を捨て念仏を唱えろ、と迫った。頼綱の狙いは日蓮教団からの離脱であって、宗教上の改宗ではない。にもかかわらず法華経信仰から念仏信仰への改宗を迫ったのは、農民にとって実践可能な仏道修行が称名か唱題に限られていたからであり、唱題による法華経信仰は、それを初めて知った下層の農民にとって日蓮への信仰に等しいものだったからである。ゆえに頼綱は称名と唱題の二者択一を迫った。唱題が、日蓮信仰と同化しつつ下層へと受容されていった証左とみてよかろう。
さらに日蓮による曼陀羅の授与は、密教僧の占有から祈祷を解放し、一般化したといえる。ただし、日蓮が祈祷について示した見解は極めて少なく、あくまでも法華経の通りに修行することの功徳と「法華経の行者」の祈りを強調した。日蓮は、自身を根本とする法華経修行を説き、日蓮に連なる一門の拡大をもって末法の理想を描いている。そこに複雑な儀軌による特別な祈祷の入り込む余地はなく、祈りにも日蓮との同心を説いた。この点、熱原の農民信徒が最後まで題目を唱え、日蓮一門として弾圧に耐えたことは、日蓮が目指す法華信仰が下層の農民にまで到達したことを示す画期といえる。日蓮はこのことをもって「出世の本懐」を遂げたと宣言する。
江間浩人
—次回12月1日公開—
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