『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』特別付録
〈日蓮と池田大作〉
江間浩人
創価学会の池田大作名誉会長が2023年11月15日に逝去した。享年95歳。新聞各紙は訃報をのせ、生前を知る記者が評伝をしるした。「人心掌握の達人」(毎日、小川一氏)、「磊落なカリスマの細やかさ」(産経、佐々木美恵氏)など、巨大教団のリーダーの知られざる繊細な心配りをえがいた。なかでも読売新聞グループ本社社長室の松永宏朗氏の評伝は印象的だ。池田氏は「平和を語る一方で戦うとなれば徹底して勝利を追求した」とし「信望者には慈愛あふれる仏のごとく、対立者には蛇蝎のごとくみなされた」と評したうえで「その人物像はあてる光によって大きく変わる」と。
創価学会は日蓮の教えをつぐ教団である。およそ800年前、13世紀の鎌倉時代に生きた日蓮と池田氏。ふたりの人物像が酷似するのは偶然だろうか。「立正安国を語る一方で戦うとなれば他宗をせめて徹底して勝利を追求した」「門下には慈愛あふれる仏のごとく、対立者には蛇蝎のごとくみなされた」日蓮像は、あてる光によって大きく変わるのだ。ここでは拙著で記さなかったふたりの共通項を論じたい。
前史
創価学会の戸田城聖氏は1951(昭和26)年5月3日、二代会長の就任あいさつで日蓮正宗に「学会常住の本尊がほしい」と授与を願い出る。さらにその授与をまって「創価学会の歴史と確信」と題する論考を発表する(『大白蓮華』同年7月10日、8月10日)。「日蓮正宗を潰しても宗祖の志を継ぐ」というのが初代の牧口常三郎会長の魂であり、我々の確信だと宣言した。そしてすぐに、正宗からの独立にそなえ創価学会の宗教法人設立を申請する。
当然、正宗からは反対の声があがるが、戸田氏は面従腹背でつき進む。その後も正宗と戸田氏は何度も衝突する(注1)。そのたびに押しては引きを繰り返しつつ時をかせぎ、信徒数の増大とそれにともなう経済力で正宗をおさえていった。
三代会長となった池田大作氏も戸田氏の遺志を継ぐ。海外進出と教団の拡充を優先して正宗とは友好関係を保つが(注2)、1977(昭和52)年に新路線を打ち出す。日蓮以降の日興や日寛を教義の根幹とする正宗にたいし「途中の人師・論師を根本とすべきではない」(聖教新聞2月17日付)と宣言し、日蓮直結をかかげて正宗からの脱却をはかる。結局、一敗地に塗れるが、「恩師の二十三回忌に思う」(聖教新聞1980年4月2日付)で、新路線は戸田氏が残した「創価学会の歴史と確信」にそったものだったと記した。
ようするに戸田氏も池田氏も正宗の軒を借りて母屋を取ろうとした。目標にむけて一直線に進まず蛇行を重ねるから当事者にもその真意はみえずらいが、日興も日寛も板曼荼羅もそのために必要ということで、命がけの方便だった。1990(平成2)年にはじまる正宗との対立は前回のリベンジであり、戸田氏が繰り返した押し引きの延長だ。理想は「正宗を儀典部として抱える」だったにちがいない(注2)。裏工作を担う人材に恵まれなかったのだろう。最終局面は直線的になる。
共通項
法華経の卓越性は「万人成仏」にある。仏法に悟りを求める学者たちがこれを難解に解釈して本覚思想などというわけがわからない話にしてしまった。しかし「万人は等しく尊い」という原則を打ち立てたのが法華経だと日蓮は理解している。世界人権宣言を大昔に先取りし、信仰に高めたのが法華経ということだ。
ところがこの原則は、人々に簡単に受け入れられない。資本家と労働者、健常者と病者、男と女、壁は多く高い。なかでも神と人の壁は最も堅牢な要塞として人類史に立ちはだかってきた。現在のガザが象徴するのは、神が人に優越し、神の正義で人は人を殺せるという人間の性である。法華経をひと言で人権思想というなら、神仏の優位は簡単に人権を潰せる。「万人成仏」は夢想におわるだろう。
人権思想そのものは、観念にすぎない。理屈はあっても現実は動かない。だから法華経迹門だ。問題は、人権優位の世界をどう実現するか。これが本門で説かれる。本門の釈尊は、法華経(人権思想)の力が失せて神仏が優位し、紛争の世になると新たな仏が再び法華経を広めると説く。三類の強敵と戦い、広める。これが永遠に繰り返されてきたのだ、と。久遠実成とはそういう意味だ。神仏信仰をおさえ現実に人権優位の世をつくるために仏は戦う。仏とは迫害のなかで現実に戦うものを指す。これが日蓮の覚悟だろう。まさにことば通りの「法華経の行者」の姿がそこにある。
法華経を説く仏は、人々の信仰を集めるカリスマ。方便の達人だ(注3)。この一人が、外道や迹門を凌駕して人々から尊敬されて初めて人権思想は現実に力をもつ。人々に「あなたは仏になる」「あなたは尊い」と訴え、逆に皆から石つぶてをあびた不軽菩薩の物語は、「神仏優位を信じる人」からの攻撃を想定して初めて現実味をおびるはずだ。その意味で、国連が力を失ったのは迹門の限界であり、有名無実だからにちがいない。本門の仏、法華経の行者がいない。理想はいいが、現実に人権優位のいくさを起こせる人物、世界のカリスマが不在なのだ。
日蓮と池田氏、ふたりの「信じさせる人」が目指したのは、同じく法華経の現実化だろう。そのために政治のど真ん中に身をおき、いくさを起こした(注4)。ふたりの人生は闘争そのものだ。現代の日本で「万人の等しい命」のために所得格差の縮小と社会保障の拡充を実現しようとしたら、どれほどの抵抗と困難があるか。それを地球規模で実現しようとしたら、どうか(拙著271頁)。目的のために先ず「天下をとる」「エスタブリッシュメントをとる」が目標で、外道も迹門も日蓮正宗も使うものだった。けっして法王や国連や正宗のひもにはならなかった。
「われ日本の柱とならむ」との大願は「大衆福祉の公明党」とともに大書され、766年後、熾烈な闘争のはてに政権をにない現実となった(注5)。日蓮が敗れたいくさを三代が引き継ぎ、兵卒を集めて孤城を築き、万軍を率いて幾たびもやぶれ、満身創痍になりながら信仰と政治の戦いをやめなかった。ここに戸田氏が後継にたくした水滸会の魂があり法華経の行者の姿がある。
次なる誓願は「われ世界の柱とならむ」だった。トインビーら世界的識者と対談を重ね、各国からの学術称号で基盤を広げてノーベル平和賞をとる。実現できれば新たないくさの号砲となったはずだ。こころざしを継ぐものは桁違いの大望をいだき、想像を絶するいくさを宗教と政治でみずから起こす必要がある。新たな日蓮はそう戦うにちがいない。
「私が死んだら創価学会はもう終わり」。毎日新聞客員編集委員の小川一氏がしるし残した一言は、その大願と戦いがいかに苦心孤忠で壮烈だったかを伝えてあまりある。
(えま・ひろと)
2024.1.2
注記
(1) 代表的なものに1952(昭和27)年4月27日、日蓮正宗大石寺の宗旨建立七百年記念慶祝大法会の前夜に戸田城聖会長の指揮で創価学会がおこした僧侶暴行事件がある。「狸祭り」とよばれる事件で戸田氏は警察に拘留され、正宗は宗会で戸田氏の謝罪文提出、大講頭罷免、登山停止を全会一致で決議した。戸田氏は宗会議員を個別に説得、懐柔するとともに五重塔の修復を誓約し、決議を骨抜きにする(『人間革命』第六巻「七百年祭」「推移」「余燼」「離陸」、「”黒い鶴”のタブー」『赤旗』5.1,2)。また死期が迫る1958(昭和33)年3月29日にも創価学会を見下す僧侶には「一歩も退いてはならんぞ、追撃の手をゆるめるな」と遺訓を残した(「聖教新聞」1958.4.4)。
(2) この間も水面下での押し引きは繰り返された。1974(昭和49)年4月30日、創価学会は日蓮正宗に対して「日蓮正宗国際センター」設立構想を打診する。日達法主は名誉総裁として棚上げされ、池田大作氏が会長として海外の組織を主導するものだった。そのため法主の反対で構想は潰れるが、翌年、法主を名誉総裁とする「国際仏教者連盟」が設立され、その一員として池田氏を会長とする「創価学会インタナショナル」が結成された。形式上の妥協がはかられる一方で日蓮正宗を抱え込む法的な整備は着実に進んでおり、国内に先行してすでに海外では寺院の法的名義は日蓮正宗ではなく創価学会の現地法人であり、僧侶も創価学会と雇用契約を結び、寺院への供養は創価学会への寄付扱いとしていた(「社長会記録」1971.12.15)。
(3) 仏への信仰とは、仏を慕い、仏とともに生きることである。法華経では「在在諸仏土 常与師俱生」(化城喩品)と説く。日蓮門下の信仰も「日蓮との同心」につきる。弾圧の渦中「日蓮は師匠だが、あまりに厳しすぎる。われらは柔らかに法華経を広める」と去った弟子がいる。題目も本尊もすてないが、他宗批判はしない、という。日蓮は彼らを激しく非難する(拙著170頁)。「題目を唱え、曼荼羅や教主釈尊を本尊と仰ぐ」ことはひとりでも可能だが、日蓮はこれを是としなかった。日蓮が求めた信仰は、日蓮とともに生きることであり「日蓮が一門」だった。池田大作氏が門下に求めたのも「師弟不二」の生きざまだった(『人間革命』第十巻「一念」)。過去の「学会歌」にはどれもそのこころがあふれている。
(4) 戸田城聖氏は日本の政財界をになう人材を育成するため男子青年部の中核で「水滸会」を結成する。やがて創価学会が政界進出するとこの中から議員が誕生していく。1956(昭和31)年10月、戸田氏は自民党の岸信介幹事長の地元山口に一極集中で勢力を拡大して匕首をつき、死の直前の1958(昭和33)年3月16日、総理となっていた岸氏を大石寺大講堂の落慶法要に招き、並び座して「宗教界の王者である」と宣言しようとする。そしてその姿を「広宣流布の模擬試験」と呼び、遺弟らが実現すべき目標とさだめた。創価学会が宗教界の王者として政権をになう、との遠大な構想である。
(5) 1962(昭和37)年11月17日の公明党結党大会で壇上の左右に大懸垂幕がかかげられ、右に「日本の柱 公明党」、左に「大衆福祉の公明党」と大書された(東京両国・日大講堂)。公明党は1993(平成5)年8月9日に非自民連立政権として細川護熙内閣に加わるが、翌年、野党に転落し、1999(平成11)年10月5日に自民党・自由党と連立を組み政権に復帰する。以降、3年あまりの民主党政権をはさんで自民党と政権をにない続ける。当初わき役だった福祉政策は予算規模を増大しつつ、国の重要政策へと転換をとげる。2007(平成19)年には「国民の生活が第一」のスローガンをめぐって民主党と公明党に福祉の本家争いが勃発した。これは福祉が国政の中核の座をしめたことを象徴するもので、結党時の目標達成を物語る画期となった。