『コロナの倫理学』 ⑤コロナの終息

『コロナの倫理学』 ⑤コロナの終息

森田浩之

 

「しゅうそく」の意味

 

一時期に比べて「コロナの収束」または「終息」という言葉を見かけなくなった。「もう終わって欲しい」という希望的観測が消えてしまった証拠だろうか。しかし同じ「しゅうそく」と読むふたつの漢字は明確に定義されてこなかった気がする。

 

ネットのweblio辞書を引用すると「新型コロナウィルス感染症における収束とは、新規感染者数が一定期間減少傾向にあり、医療機関が落ち着いた状態にある時である。一方、新型コロナウィルス感染症の終息といった場合には、ワクチンが開発され、新規感染者がほとんどいない状態を指す」1)とある。

 

私は独断と偏見で、独自の定義を提出したい。「収束」は世の中にまだ新型コロナウイルスは存在するが、人間の努力で感染者を医療機関が対処できる程度にまで抑え込んでいる状態で、「終息」はウイルスが変異をくり返して人間に反応しなくなる状態にまで変化するか、完全にすべてのウイルスが下水道を流れて浄化され、この世から消えた状態としたい。

 

言い換えれば、「収束」状態では、まだ人間に悪さをするウイルスは存在している。そしてまだ少数とはいえ、感染者はいて、重症化する人もいる。しかし多くの人が安心して2019年頃までの生活を取り戻せる。一方の「終息」状態は、ウイルスの変化か、または人間の努力かは別にして、完全にゼロ、とまでは言わないにしても、麻疹や風疹くらいまで、人びとの記憶から消えるくらい、この世の中に存在しなくなったこととしたい。

 

「収束」にまで持っていくのは100%人間の努力である。2021年4月から5月にかけての3回目の緊急事態宣言が飲食店でのアルコール提供を禁止して、デパートなど人の集まるところへは休業を要請し、イベントは無観客にするよう求めるのは、あくまで「収束」に持っていく努力である。いまウイルスを持っている人が出歩いて別の人にうつすのを防ぐには、一度、人の動きをほぼ完全に止めなければならない。そしてそれは最低2週間必要である。いまウイルスを持っている人が別の人と濃厚接触しないまま、ウイルスをトイレに流して欲しいからである。

 

一方の「終息」に至るのには、ふたつの道がある。ひとつは超人的な人間の努力。もうひとつはウイルスの変異である。前者は「収束」を導く人間の努力を超人レベルにまで引き上げて、この世に存在するすべてのウイルスを下水に流すことである。しかしこれがほぼ不可能に近いのは、仮に地域限定で、その地域にあるウイルスをすべて廃棄できても、地域を超えた交流を認めるならば、どこかにあるウイルスは入ってくる。

 

ということは、ウイルスの変異を待つしかない。このことに気づいたのはNHK NEWS WEBに掲載された「ワクチンは、あなたに届くか?」(2020年9月3日)という記事2)を読んだ時である(テレビ放映されたものがサイトに掲載されたのだろうが、家にテレビがないので確認しようがない)。題名のとおり、世界的なワクチンの争奪戦が議論されていた2020年夏頃の話で、価格交渉に携わった「厚生労働省医系トップを務めたキーマン」へのインタビュー記事である。

 

記事の大半は、ワクチンの調達方法、厚生労働省特命チームにまつわる秘話、厳しい海外製薬会社との交渉、価格、ワクチンの効果、ワクチンの開発状況と製薬会社ごとの進捗状況、国内製薬会社の現状、ワクチンの確保のための国際的枠組み、接種の優先順位をめぐる話である。そして最後の最後、普通なら読み流してしまうところに、以下のような発言が出てくる。私はこの時、心のなかで「これだ!」と雄叫びをあげた。

 

 「このウイルスも3年か5年か7年か分からないが、いずれ弱毒化していくのは間違いない。その間、ワクチンや治療薬、さまざまな社会的な政策によって、感染を抑えて、混乱が起こらないようにしていくことが大事です。ワクチンはその中の非常に重要な柱なのです。」

 

私はこれをもって本当の「終息」となると考えている。「最大で7年も?」とブチ切れそうになる方もおられるだろうが、おおよそ人間の記憶から去っていくレベル(少数はまだ感染し続ける)と、人間に悪さをする現状の新型コロナウイルスがこの世から完全に消滅するレベルとのあいだには大きな差がある。前者を導くには人間の努力があれば可能であるから、本気になれば来年くらいにはマスクを外せるかもしれない。しかしこの状態では、記憶から去っても、ウイルスは存在している。ウイルスが消えるか、人間に悪さをしない形態に変化することが、本当の終わりである。そうなれば、毎年の感染者をゼロにできる。

 

ウイルスの進化

 

ここからは私の憶測だから、それを承知で流し読みしていただきたい。私はイギリス滞在中、最初の2年間は哲学部の大学院生として、英語圏の哲学(分析哲学)を学んだ。それからだましだましビザを更新しながら、7年間(通算で9年間)ロンドンに住み続けたが、哲学以外で一番勉強したのが進化論であった。

 

とはいえ、これは私のなかでは別物ではない。私が求める哲学にはふたつの傾向があり、ひとつは科学を真剣に受け止めること、もうひとつは職業的哲学の問いに限定されることなく、人間・社会・自然をトータルに理解することである。人間の行動が社会をつくりあげ、人間は生物あるから自然的存在でもある。人間を軸に社会と自然を総体として捉える枠組みを探求し続けた。そして当時の暫定的答えが進化論であった。

 

「進化心理学」という学問が流行っていたこともあり、ロンドンの本屋の科学本コーナーには多数の進化論関係の書籍が並んでおり、それを一時期は端から端まで読破した。ただし、いまになって思うと、人間行動を進化論だけで説明しようとすることには無理があり、結局、飽きてしまい、いまはもう何も読んでいない。

 

人間行動学として進化論を学ぶ前提として、進化論自体を知っておかなければならない。物理学と違い、難解な数学を理解できなくても中身はわかるから、私のような生粋の文系にふさわしい自然科学の分野である。さらにイギリスはダーウィンの国でもあり、進化論の解説本は無数に入手できた。

 

それを最後に読んでから20年近くたった現在の視点で簡潔に整理すれば、進化とは「変異」と「淘汰」の組み合わせによる種の変化のことである。ダーウィンの時代には知られていなかったが、変異とは遺伝子の変化によって個体が変化することであり、淘汰とは環境に適応できない個体が死滅することで、結果的に、種全体が絶滅することである。そして生き残った個体が子孫を残すことで、種全体が生き延びるのが進化である。これをくり返すと、1万世代後には、種は別の形態(表現型)に変化している。

 

オスとメス、男と女という性別のある生物では、受精時に父方の遺伝子と母方の遺伝子が混じり合ってシャッフルされるから、これによって次世代の個体の遺伝子は変異する。性選択によって遺伝子に変異を起こす理由については諸説あるが、最も説得力があるのは寄生虫から身を守るために、世代ごとに遺伝子を変化させるためだというものである。進化論的に正確に言うならば、世代ごとに遺伝子の変異をくり返してきた種が寄生虫の餌食にあわずに生き延びた、とするべきであろう。

 

われわれの知る通常の生物の変異はこのように起きる。そして新たな組み合わせの遺伝子を持つ次世代の個体は、ある特定の環境のもとに生まれ落ちる。もしその環境に適応できれば生き残り、子孫を残す。するとその遺伝子は、シャッフルされるものの、次の世代に受け継がれていく。一方、その特定の環境に適応できないと、その個体は死滅する。同じ種の個体は似た形態(表現型)を有するから、やはり同じ種の他の個体も死滅する。その結果として、種全体が絶滅する。

 

同じ種でも性選択で少しずつ遺伝子の構造は変化していくから、環境に適応するごとに微妙に遺伝子は変化して、それが1万世代を経ると、種が変化する。これを後世の人が後づけで「進化」と呼んでいるが、進化はあくまで個々の環境への適応のことで、数世代にわたる集積に過ぎない。だから進化に「目的」も「意味」もない。

 

ここまではわれわれの知る性別のある生物の進化について見てきたが、ここからはこれをもとにした私の推測である。ウイルスの進化は「淘汰」部分は同じだが、「変異」部分が異なる。性別がないからである。しかしそれでも「変異株」と言われるように、変化をくり返している。これはすでに以前述べたように、コピー時の「ミス」による。

 

確認すれば、ウイルスは遺伝子(RNA)をタンパク質が包んでいる構造をしており、それが人間の口や鼻から気道に入ると、人間の細胞(タンパク質)を材料にして増殖を始める。私は人体からタンパク質を奪って、そこに自分の遺伝子をコピーしていくことと理解している。

 

ウイルスは正確な複写機とは違い、必ずしもいつもひとつの配列も間違えずに転写していくわけではない。そのミスは無数にあり、そのミスによって、一方では人間に反応しないウイルスに変異する場合もあるだろうし、もう一方では飛沫を遠くに飛ばすような変異をつくりだすかもしれない。実際、2020年当初の「武漢タイプ」と同年春からの「ヨーロッパ・タイプ」では、後者のほうが飛沫が遠くに飛ぶそうである3)。さらには、若い世代をも重症化させるほど悪性を強める変異が起こる場合もある。

 

おそらく、その変異の数とパターンは人知を超えるほどの数になるだろうが、そのうちいくつかはしばらく人間に反応し続ける。これはウイルスから見て「生き残った」状態である。上記のNHKによる厚生労働省の医務技監へのインタビューでは「弱毒化」の意味は解説されていないが、以上の理論的枠組みから、私はウイルスが変異をくり返していくうちに、人間に反応しない形態になると理解している。だから「3年か5年か7年か分からない」のである。人間の努力とはまったく別次元の、ウイルスが勝手に行う変異に依存するしかないからだ。

 

もし私のこの見方が完全に正しいとは言えないまでも、間違ってもいないとしたら、上の医務技監の言葉も理解しやすい。もう一度引用すると「このウイルスも3年か5年か7年か分からないが、いずれ弱毒化していくのは間違いない。その間、ワクチンや治療薬、さまざまな社会的な政策によって、感染を抑えて、混乱が起こらないようにしていくことが大事です。ワクチンはその中の非常に重要な柱なのです。」ワクチンは人間の手を離れたウイルス自体の「弱毒化」までの時間稼ぎのために中心的な役割を果たすということである。

 

ウイルスの生存期間

 

ウイルスは生物ではないから、正確には「生存」するのではなく、効力を保ち続けると言うべきである。感染経路は飛沫と接触で、飲食店がターゲットになるように、中心的な感染経路は濃厚接触者による飛沫感染である。しかしマスコミでも、研究機関のサイトでも、接触感染についてはあまり見かけない。だから物に触ることの危険性については不明なことが多い。

 

ただ、理屈上は危険であることは間違いない。家族から感染者が出たらどうすべきかという話も一時期よく目にした。感染していない家族も買い物に出られないのか、と。たくさんの記事を読んだので、もう出所は覚えていないが、専門家によれば、買い物をしてもいいが、マスクをして、買う物だけを触って、一度触ったものは戻さず、必要なものを短時間で買って、店を出て欲しい。

 

接触感染の典型例では、すでに以前書いたように、くしゃみや咳の際に口を覆った手でドアノブを触り、その後に来た人がそのドアノブを掴み、そのまま口や鼻にその手を持っていくと、前の人のウイルスが後ろの人に感染する。ならば、同じことはお店の商品でも起こるはずだ。日々、スーパーなどに買い物に行くと、いまでもまだ触った商品を買わずに棚に戻す人がいる。もしその人の手にウイルスが付着していて、後から来た人がその商品を掴み、手を洗うことなく口や鼻にその手を持っていったら、後の人にウイルスは感染する。

 

しかしウイルスはそのまま放置されると効力を失う。もし世の中のすべてのウイルスがこのような状態のまま放置されれば、やはりこれでコロナは「終息」する。その期間はどのくらいか。無数のサイトで見てきたが、本稿を書き始めた2021年4月後半の時点で改めて検索して見つかったのが産経新聞なので、それを引用すると「新型コロナは主に、感染者のくしゃみなどによる『飛沫(ひまつ)感染』のほか、ウイルスが付いた場所を触った手を介する『接触感染』で広がっているとみられる。米国の研究結果では、プラスチック上で最大72時間は感染力を維持するのに対し、段ボールでは24時間、銅では4時間で感染力を失ったという。一方、ヒトの皮膚上での研究は感染のリスクがあるとして進んでおらず、生存期間は分かっていなかった」4)となる。

 

そしてこの記事の図によると、空気中(エアロゾル)の生存期間(既述のように、正確には「効力を保ち続ける期間」とすべき)は3時間、銅は4時間、人間の皮膚は9時間、段ボールは24時間、ステンレスは48時間、プラスチックは72時間となっている。2020年春のコロナ禍初期の頃、個人のお医者さんのFacebookが話題になり、NHK NEW WEBが取り上げた(2020年4月15日)。タイトルは「医師が記したコロナ予防法“敵は塗りたてのペンキ”」5)で、ウイルスに気をつける方法を指南した、いまでも通用する秀逸なインストラクションである。そのなかに「さらに眞鍋さんの家では外から届いた荷物などを念のため、玄関に72時間放置してから開封しているそうです」とあり、それから私は物に付着したウイルスについて考えるようになった。

 

いつまで?

 

これがいつまで続くのか、この疑問は無数の人が無数回、問い続けてきたものである。とはいえ、哲学を学んでいると「何をもって、いつ?としているのですか」と理屈をこねたくなる。哲学研究者とは、定義好きの種である。

 

アメリカのバイデン大統領は「新型コロナウイルスの感染状況について『次のクリスマスまでには、かなり違う状況になっていると思う』と述べ、ワクチンの接種を進めることで、ことし12月ごろまでには事態の正常化に近づけたいという考えを示しました」と報じられている6)。一方『MIT Technology Review』(2020年4月17日)は「米国での新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の蔓延をモデル化したハーバード大学公衆衛生大学院の研究者による新しい論文によると、『2022年まで、長期または断続的な社会的距離(Social distancing)政策が必要になるかもしれない』という」と書いている7)。

 

後者は2020年4月と古い記事だが、2021年1月にもYahoo! Japanニュースが「今なお、世界中で感染者や死者を出し続け、パンデミックが収まらない現状では、拙速な対応は危険です。ハーバード大学の研究チームは、2022年までは感染の流行が続く可能性があると発表しています」という医師の言葉を紹介している。

 

最後の記事は「流行が続く」と明快だが、バイデン大統領の「正常化」とは何を意味するのか。人びとがマスクなしで会食できることを意味するのか、それとも感染者数がゼロ近くになることなのか、それとも弱毒化まで行くのか。私はこれを、おおよそ昔の生活を7~8割取り戻せるということと推測する。感染者は減るが出続ける、マスクは会食など要所要所では必要、しかし日本でいうところの緊急事態宣言が発出されたり、「まん延防止等重点措置」が適用されることがなくなるということであろう。おそらく2022年になって、「緊急事態」とか「まん延防止」という言葉が記憶から消える程度が最善のシナリオなのではないだろうか。

 

 

1)https://www.weblio.jp/content/%E5%8F%8E%E6%9D%9F

2)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200903/k10012596971000.html?utm_int=tokushu-new_contents_list-items_401

3)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201113/k10012709341000.html

4)https://www.sankei.com/west/news/201009/wst2010090033-n1.html

5)https://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/400/442092.html

6)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210217/k10012872461000.html

7)https://www.technologyreview.jp/s/199595/social-distancing-until-2022-hopefully-not/

 

 

 

森田浩之(モリタ・ヒロユキ)

東日本国際大学客員教授

1966年生まれ。

1991年、慶應義塾大学文学部卒業。

1996年、同法学研究科政治学専攻博士課程単位取得。

1996~1998年、University College London哲学部留学。

著書

『情報社会のコスモロジー』(日本評論社 1994年)

『社会の形而上学』(日本評論社 1998年)

『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社 1999年)

『ロールズ正義論入門』(論創社 2019年)

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