『コロナの倫理学』 ④ロックダウン

『コロナの倫理学』 ④ロックダウン

森田浩之

 

低確率の危機

 

私が無作為に選ばれた人と、マスクを着用せず、1メートル以内で、15分以上会話したとしよう。この時、その相手がウイルスを持っている確率はいくらか? 東京に住んでいるとして、その後の緊急事態宣言が発出される前(本稿を書き始めた時より少し前の4月中旬を想定している)、1日の感染者数の平均が500人の頃だったら、“感染させ得る”人の割合は3500人に1人、確率で言うと0.03%になる。もしこの計算が現実を大きくは外していないなら、私に感染させ得る状況にいる対面に座って話している人がウイルスに感染している確率は、宝くじで10万円が当たる確率(0.02%)よりも少し高いものとなる。

 

私自身、いまのところ感染していない。確かに無症状ということは、あり得ない訳ではない。健康で、基礎疾患はなく、毎日(雨の日以外は)必ず2時間歩いて、夕食は食べずに体重(60kg)と胴回り(70cm)を安定させて、1年に1度の健康診断の、とくに血液検査は自分で詳しく調べて、コレステロール値が高ければ、意地になって毎日サバをかけたキャベツを食べ続ける。50歳台半ばとしては頑丈な体だから、感染していても無症状ということは、ないとは言えない。しかし、とくに変異株の猛威を考慮すれば、この年齢で症状が完全にないというのは、可能性として低い気がしてきた。現に50歳台で亡くなっている方も多い。

 

いずれにせよ、いまのところ私に自覚症状はない。家族・親族を含め、周りの人のなかにも感染者はいない。仕事関連でも、感染の話は聞かない。私は自称“コロナ・オタク”ではあるが、すべての情報はマスコミとネットで仕入れている。ニュースや、政府・公的機関・研究所・大学・学会などが公表するインストラクションや研究・分析・調査結果ということである。そんなことはあり得ないが、もしこれらの情報がすべて架空のもので、私をだまそうとする陰謀であったら、私にはこれらの情報の真偽を確かめる手段がない。自分が感染者でもなく、この目で感染者を見たわけでもないから、私がコロナに関して持ちうるのは「経験的な知」ではなく「非経験の知」つまり「また聞き」の知識に過ぎない。

 

私ほどコロナ・ニュースを獰猛に追い続ける暇人は少ないが、コロナを私と同様に「非経験の知」としてしか持ちえない人が大半なのではないだろうか。そしてそのなかの多くがマスクなし会食を体験しても、まったく何事もなく、日々の生活を続けているのではないだろうか。もしそういう人が大半ならば、マスクなし会食が横行するのも、よいことではないが、理解できないことではない。

 

しかし数としては少ないとはいえ、この数の感染者が出ると、病院はパンクしてしまう。コロナ病棟拡大のため、ほかの病気の診療に影響が及んでいる。そんなことより、私が一番懸念しているのが医療従事者の方々のことである。日々苦闘されているにもかかわらず、一般国民の無理解で過度な負担を背負わされている。これに加えて、感染しているわけではないのに、コロナ差別を受けている。もちろん感染している人に対しても差別は絶対にしてはならないが、むしろ助けている人を差別するというのは、もう犯罪行為としか言いようがない。

 

数か月前、私の高齢の母親が体調不良で救急車を呼んだ。結果的に高血圧と腹痛だけでその晩に帰宅したのだが、検査のため3時間、救急外来の待合室にいたことは、さらに私の決意を強めた。

 

母に対する検査はレントゲン、血液検査、心電図などで、全部で3時間になった。その間、父と私は待合室にいるしかなかったが、そこでの(失礼な言い方だが)ドラマは、全国民に知って欲しいことだった。私の後ろにいた方は、医師から説明を受けていた。その方の親族が日中、急にけいれんを起こして倒れて、ここに運ばれたとのこと。医師はその親族の方に、倒れて運ばれた方は「タバコを吸われるか、酒を飲まれるか」などと質問し、いまは呼吸器をつけて意識不明なままだと告げる。そして、おそらく脳炎ではないか、と。

 

また別の方は、救急外来の別の診療室から待合室に入るや、声をあげて泣いている。さらに別の方は、親御さんが運ばれて入院することになり、受付の方に、必要な手続きについて質問をしている。コロナによって面会はできないから、必要なものを揃えて、明日持ってきてください、と。

 

3時間後、担当してくださった医師が来て、検査結果にまったく異状はないので、今日は帰宅してよい、と。ただ、母は自分ひとりでは歩けないので、私に対して「なかに来てください」と言い、先導してくれた。母は救急外来の診療室の入り口から見て、完璧に反対側にいた。だから私はすべての患者さんの横を通りながら先に進む。私はマスクはつけているが、息を止めながら(意味のない行動だが)、衣服についている(かもしれない)ウイルスをふりまかないようにと、静かに歩いて。その間、10人くらい、ひとりだけベッドに腰かけていたが、あとは全員、意識なく寝ていて、半数は酸素吸入器をつけていた。結果的に母の状態は深刻でなかったから、こんなことで大事な医療資源を使ってしまい、申し訳ない気持ちになった。頭によぎったのは、ここはコロナ以外の救急外来だが、「もしこれでコロナ患者が殺到したら、病院はパンクするな」と悲しくなった。

 

この草稿を執筆している時点で、東京の感染者は800を超えた。この時点で重症者は50人くらい。重症者を収容できる病床の15%弱であるが、数字にだまされてはいけない。これは数値化しやすい「ベッドの数」を意味するに過ぎず、実際に治療できる人数はもっと少ない。ひとりの患者さんに多数の看護師さん、とくに経験豊富な看護師さんが必要になるからだ。

 

以前ECMOの話をした。コロナには結局、万能の治療薬はなく、対症療法によって自力で体外にウイルスが出ていくための時間稼ぎをするしかない。本当に深刻な人は肺がボロボロになり(線状化、すりガラス化)、機能を停止しているから、そうすると血液に酸素を供給できずに亡くなってしまう。ECMOは一度血液を体外に出して、この装置に入れて、そこで酸素を注入して、人体に戻す。これによってこの間、肺を休ませるためである。この機械の操作には熟練の技が必要で、精通した医師と看護師さんが複数人必要になる。重症患者を収容するには、ベッド数だけでなく、対応できる医師・看護師の人数も考慮しなければならない。

 

ここにすべての矛盾が集約される。日常生活で一般の人が感染する確率は、私の見立てが大きく間違っていないならば、0.03%に過ぎない。しかし感染した人のうち、ほんの数パーセントでも重症化したら、それだけで病院はパンクしてしまう。医療機関は狭いボトルネックであり、そこを通り抜けなければ先に行けない人の数に比べて、間口はとても窮屈である。そして人口比では少ない数でも、みんなが低い確率だと見なしてマスクなし会食を続ければ、病院では対応できないほどの患者が押し寄せて、医療従事者を疲弊させてしまう。どちらが優先されるべきか? 私は死者と重症者を減らし、医療現場の負担を軽減するほうを優先すべきだと思う。

 

都市封鎖

 

しかしこれによって飲食店が営業時間を短縮したり、さらには休業しなければならないとしたら、それは飲食店にとっては不条理極まりない。自分の罪ではないのに、その責任を負わされるからだ。問題は客がマスクなしで会話するからであり、みんながマスク会食を徹底すれば、ゼロにはならないものの、医療現場の負担を軽減できるほどに、感染者数を減らすことはできる。客の不用心な行動の責任を、店側が取らされる。なんと理不尽なことだろう。

 

しかし2021年4月末からの緊急事態宣言では、さらに対策が強化された。飲食店のみならず、デパート、イベントなど、人が集まるところのすべてが規制の対象になった。要するに、一気に全域で人の動きを止めようという試みである。昨年春の欧米のロックダウン(都市封鎖)ほどではないが、この1年間の日本のレベルからすれば、空前絶後の奇策である。

 

私が初期の頃、最も衝撃を受けたのがイタリアからのレポートだった。当時、ヨーロッパのなかでもイタリアが中心地と言うくらい、感染者数、死者とも、最悪だった。当時の政権は外出制限を行い、一気にウイルスを封じ込める策に出た。私はその映像を見て、繁華街に人がまったくいない姿は映画ではないかと勘違いするほどであった。

 

インターネットの時代に生きていてよかったと思うのは、このような映像が自宅で見られることである。私がとくに驚愕したのがSky Newsの特別レポート1)と、ネット専門チャンネルのVICE Newsのドキュメンタリー2)だった。

 

このふたつは秀逸だから、1年前のものだが、いまでも見る価値はあるので、注釈を加えておこう。Sky Newsのものは「Italy’s coronavirus journey」(イタリア、コロナの旅)というタイトルで、YouTubeにアップされたのは昨年5月だが、テレビ放映は少し前のはずである。だから2020年3月から4月くらいのイタリアの模様と考えてよい。本編は確か45分くらいあったが、今回この執筆のため、久々に検索してみると、全編版は削除されていて、5分間から13分間の細切れのものに分割されていた。以下のURLはそのうち一番長い13分のものである。

 

VICE Newsのものは「Inside Italy’s Coronavirus Epicenter」(イタリアのコロナ震源地の内側)というタイトルで、もともとからネット用なので、2020年4月15日のアップ日が放送日ということになり、やはり昨年3月から4月のイタリアの様子が映し出されている。これは24分間のオリジナル版がそのまま見られる。

 

すべて英語とはいえ、映像だけでも見る価値があるので、だれでもアクセスできる動画について言葉で紹介するのも無粋なので、「ぜひ見てください」としか言いようがないが、Skyのほうはイギリス人のローマ特派員のレポートなので、イタリアを熟知した人がその目線でイタリア人の心情を地道に追っている点で、優れた作品である。

 

VICEのほうは同局のシニア記者がレポートしているため、必ずしもイタリア通ではないけれど、ネット専用チャンネルだけあって、映像が生々しく衝撃的である。死体の入ったビニール袋を映しているくらいであった。前者が静で、後者が動といった捉え方で、両方合わせて、当時のイタリアの悲劇がトータルに理解できるのでなかろうか。

 

両方に共通しているのは、記者本人が病院内からレポートしていることと、カメラが患者さんたちの苦しそうな姿をそのまま捉えていること、さらには袋詰めとはいえ死体を映していること、そして一方で、閑散とした繁華街の世紀末的な雰囲気をうまく描き出していることである。

 

ロックダウンは、日本のような飲食店や商店に対する休業要請ではなく、質的に異なり、完全に、一般人に対して「外に出るな!」という命令である。休業命令(「要請」ではなく)はそのひとつの駒に過ぎず、警察の取り締まりは店だけではなく、許可証なしに街に出るすべての人たちに適用される。だからSky Newsの記者が街を取材している際、警察が寄ってくる模様も映されていたが、映画のワンシーンとしか思えないほどのシュールレアリスムであった。

 

「ここまでしなければならないのか?」と驚くほどの徹底した外出制限も、ドキュメンタリーの半分を占める病院からのレポートを見れば、うなずける。これほど苦しんでいる患者を出さないために、ビニールに入れられ倉庫に積まれる死体をこれ以上出さないために、そしてこれ以上、医療関係者を追い詰めないためには、こうするしかない。

 

その意味では、日本は平和である。これは卑下でも、悪口でもない。日本人の高い衛生意識がわれわれ自身を助けている。昨年春のイタリアほどの外出制限を経験しなくて済んだことは、本当によかったことである。そしてこの間も、呑気に(失礼!)マスクなし会食ができたのも、イタリアほど感染者も、死者も凄く少なかったからである。

 

想像による危機意識

 

VICE Newsは後半で、ある家族の葬式をレポートし、祖母を亡くした孫娘にインタビューしていた。感染者も、死者も多い国では、日本よりはコロナは身近だったのではないか。だからこそ、私は当時その国にいなかったので実体験できないけれど、不承不承でも、イタリアを始め、都市封鎖を経験した国の人びとは、厳しい外出制限を受け入れたのではないかと感じている。

 

翻って日本は、高い衛生意識というわれわれ自身の努力ではあるが、感染の確率が低いため、コロナを身近に感じられる人が少なく(これ自体は素晴らしいこと)、それによって医療現場のたいへんさが理解できない。一時は病院からのレポートもあったが、減ってきた気がする。憶測だが、コロナ差別の悪影響ではないだろうか。身近にも、映像でも、コロナの脅威を知ることができない人たちに、どうしたらマスク会食をお願いできるのか。結局は個々人の「想像力」に頼るしかないのだろう。

 

この想像力はふたつで構成されていて、ふたつともが揃わないと効力を発揮しない。知識力と感情移入力である。知識力はコロナに関する正しい情報をみずから積極的に取りにいって身につけること。感情移入力は、みずからを医療従事者の立場に置いて、その苦しみを自分のこととして感じること。

 

後者はいつか改めて考察したいが、前者に関してはふたつの方法がある。ひとつは政府や信頼のおける研究機関のレポートをちゃんと読むこと。そして、やはり映像のインパクトは圧倒的だから、動画を活用すること。しかし日本の場合は、先ほど述べたように、コロナ差別の影響もあり、報道機関が病院内に突撃してレポートすることがむずかしい(もしかしたら感染を怖れる報道側の萎縮もあるかもしれない)。いくつかの病院が報道陣に内部を公開しているが、SkyやVICEのように苦しんでいる患者を映すことはできない(顔はぼやかしている)。しかしあの息もできないほどの激しい咳の連続を一瞬見ただけでも、コロナの威力はわかるはずだ。

 

私はこれらパラレル・ワールドの存在をいまでも把握できていない。まったく異なったふたつの世界がひとつの社会のなかに共存しているという現実を受け入れられないでいるし、学問的にも、ふたつの平行世界を包摂する世界像を見つけられないでいる。

 

一方に、楽しそうにマスクを取って、おしゃべりをする若者がいる。そして社会の反対側には、時間的には同時進行しているが、まったく別の世界に、言葉では表現できないほど、身を粉にして、誠心誠意、患者に尽くしている医療従事者がいる。「まったく別の世界」とは時間的・空間的に別の場所ということではない。同じ日本社会という共同体のなかに住む同じ日本人である。むしろ日本社会という意味では、時間と空間を共有しているものの、質的に別の「世界」としか表現しようのない場所に、それぞれは相手と交流することなく、定住している。この「世界」は物理空間というよりは、精神的な居住地のことで、その人を取り巻く関係性の総体である。

 

重症者には看護師さんたちは、ずっとつき添っていなければならない。それは超人的な精神の逞しさであり、美しさである、その高い精神性を感じることができるならば、マスクなしの会食なんて、できないはずである。

 

 

1)https://www.youtube.com/watch?v=q9MhoVpHAeg

2) https://www.youtube.com/watch?v=2wKod86QYXw

 

 

森田浩之(モリタ・ヒロユキ)

東日本国際大学客員教授

1966年生まれ。

1991年、慶應義塾大学文学部卒業。

1996年、同法学研究科政治学専攻博士課程単位取得。

1996~1998年、University College London哲学部留学。

著書

『情報社会のコスモロジー』(日本評論社 1994年)

『社会の形而上学』(日本評論社 1998年)

『小さな大国イギリス』(東洋経済新報社 1999年)

『ロールズ正義論入門』(論創社 2019年)

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