オイル・オン・タウンスケープ 第六号(後半)

田園都市の憂鬱───港北ニュータウン 第六号(後半)

中島晴矢

《港北ニュータウン》2021|カンヴァスに油彩|727 × 500 mm

 

 小説家・佐藤春夫の作品に『田園の憂鬱』がある。大正時代に発表された小説だ。 

 

 そこには、都会の喧騒を逃れ、一家で農村の一隅に身を寄せた青年の、病的な心象風景が描かれている。物語の舞台は、武蔵野台地の南端に位置する鶴見川ほとりの丘陵地。現在の田園都市線・市が尾駅すぐ側である。つまり、かつて素朴な「田園」が広がっていた一帯は、今や東急線沿線の「田園都市」となっているのだ。

 

 春夫の時代とは100年近く隔たるが、同じく私も、「田園都市」に対してある「憂鬱」を湛えていた。先述した通り、それはたまプラーザに引っ越した中学生の頃から始まっている。

 

 そもそも「田園都市」とは、社会改良家エベネザー・ハワードが『明日の田園都市』で提唱した都市形態だ。19世紀末のイギリスで、劣悪な労働環境を改善すべく企図されたその概念は、〈都市〉と〈農村〉の「結婚」であり、双方の利点を併せ持つ「第三の選択」として示された。だから原義としての〈田園都市〉は、”郊外に建設される自律した職住近接型の都市”というビジョンで描出されている。

 

 ただ、その理念は日本に輸入されると共にローカライズされた。結果この国の「田園都市」は、大都市に付随した単なる郊外住宅地、すなわち「ニュータウン」として開発されていくことになる。

 

 なかでも多摩田園都市は、渋沢栄一の田園都市株式会社を母体に、東急電鉄が開発したニュータウンだ。その建設は、人口や経済が右肩上がりだった時代の要請でもあったろう。より多くの住宅を供給すべく、東京がスプロール状に拡大していくその先に、「第四の山の手」とも呼ばれる多摩エリアがあったのだ。

 

 そうした都市の一つがたまプラーザ駅周辺だった。何しろ「プラーザ」である。80年代、ドラマ『金曜日の妻たちへ』のロケ地になるずっと前から、ある種のトレンディさを纏っていたことが肯ける。

 

 言うまでもなく、たまプラーザは東急のつくった街だ。東急の電車に乗降し、東急百貨店で買い物をして、東急バスで東急の造成した住宅地に帰る。まるで『ゼイリブ』のサングラス越しに見るような画一的な世界。象徴的だと感じたのは、駅からTDR直行のバスが出ていることだ。それはフェイクの街から街へ、無菌状態で輸送される経験である。そこには一切の〈外部〉が存在しない。その点で、たまプラーザもディズニーランドも、本質的には入れ替え可能な環境だったとすら思う。

 

 もともと引っ越す以前から、中学受験の大手進学塾に通うため、私は3年余りたまプラーザに出向いていた。中川駅から一駅のあざみ野で乗り換え、田園都市線でまた一駅。一丁前に回数券を持って、臆面もなく「N」と縫われたバッグを背負い、マクドナルドやプラモデル屋に寄り道しながら通塾路を行く。地元の小学校では、かなり多くの生徒が中学受験を選択していたはずだ。そういう上昇志向というか、教育へのなりふりかまわぬ投資と、ニュータウン独特の空気感とは、私の中で切っても切れない関係にある。

 

 受験が一段落ついたところで、そのたまプラーザへと一家で移った。当時の駅舎は、まだ木造の可愛らしいものだったが、今では吹き抜けの鉄骨造りで、天井が高い空港みたいになっている。再開発に伴い、駅周辺も「たまプラーザテラス」なるモールへと変貌を遂げた。

 

 家までは駅直結の地下ターミナルから、バスで15分ほど揺られる必要がある。車窓に映るのは整然たる田園都市だ。潤沢な緑と、西洋風の一軒家が居並ぶ景色を眺めながら、陽光の刺す坂の多い街路を上り下りする。そうやって辿り着くのが、”美しが丘”という紛い物めいた地名に建つ、こぢんまりとした一軒家。最寄りのスーパーは成城石井で、近所には桜アベニューなる通りがあった。

 

 実家の外観はまるでケーキだ。その区画の家並みは同じテイストで統一されていて、クリスマスシーズンになると、各ファサードに色とりどりのイルミネーションが飾られる。そうした小綺麗なストリートの端っこに私の家はあり、隣は公園で裏は木立だった。だから常に別荘地みたく静かで、鳥の鳴声くらいしか聞こえない。猫の額ほどの庭には木製のファニチャーが置いてあり、そこでたまに読書をする。周りにはいつも母の育てる花が咲いていた。今思えば、ガーデニングは母の展覧会だったのだ。

 

 おそらく、それは幸福な家庭の一コマだったに違いない。でも、私は全然もの足りなかった。刺激や強度はもちろんのこと、そこには深い奥行きが感じられなかったからだ。

 

 ニュータウンには歴史がないから、地域社会がない。大きなお祭りもなければ、ヤンキーもいなかった。ヴァナキュラーなき風土に、ただ各家庭が根なし草として生えている。プランターみたいなそこに、私は曰く言い難い息苦しさを感じていたのである。

 

 ただ、あくまでそれが私のリアルだった。その薄っぺらさも含め、ニュータウンという土地を引き受けて生きていくしかなかったのだ。

 

 大学入学と共に実家からは無事脱出できた。

 

 渋谷に始まり、中野坂上、目白、西台、町屋と、東京を移ろいながら生活を送っている。ただ、「根拠地」たるニュータウンは、いつしか現代美術に取り組みだした私にとって、実存的なテーマとなった。〈愛憎〉にまみれたこの凡庸なフッドを私はどのようにリプレゼントできるだろうか───? そのような問いのもと、約5年の月日をかけて3本のシリーズにまとめたのが、映像作品《バーリ・トゥード in ニュータウン》だ。

 

 この映像は、二人のレスラーと一人のレフリーが、ニュータウンの街中で延々と路上プロレスを繰り広げるという作品である。下敷きにしたのは、中学生の頃に見た安ビデオ『バーリ・トゥード in 商店街!』。そのVHSは、とある団地内の商店街を滅茶苦茶に破壊しながら、インディレスラーたちが肉体を痛めつけ合う代物だった。しかし、私はそこに非日常の輝きを見出してしまう。彼らは強固な日常の風景を、まさしく破壊していたからだ。

 

 そのビデオから受けた衝撃を照射するように、ニュータウンの日常を撹乱すべく、私たちはプロレスを敢行した。佐藤栄祐レフリーに裁かれながら、私が扮するマスクド・ニュータウンと、悪役レスラー・バビロン石田とで、時間無制限の一本勝負を闘ったのである。

 

 ロケーションとしては、第一作が多摩田園都市の美しが丘周辺で、次が関東最大規模を誇る多摩ニュータウン、最後に“日本で最も古いニュータウン”である大阪の千里ニュータウンへと至る。このようにフィールドを転々としながら、プロレスを通してニュータウンの風景に介入することを試みた。私たちは目の前の敵と対峙しながら、同時に、平穏で無機質なその風景と格闘していたのだ。

 

 とはいえ、いくら必死に試合を展開しても、ニュータウンの日常が壊れることはなかった。むしろ、その分厚さが逆説的に浮き彫りになったくらいだ。

 

 しかし、多摩ニュータウンのリサーチを始めた頃から、自身の心象に変化が生じ始める。あれだけ平坦に見えたニュータウンも、プロレスを実践するリングとして捉え返すと面白い。アスファルトは固いマット、電柱や街路樹はコーナーポスト、公園の遊具は凶器として立ち現れる。のたうちまわって受け身を取り、物理的に街へ肉体をぶつけることで、その微細な凸凹に気づくことが増えてきた。

 

 なだらかな坂道で殴り合い、サンリオピューロランド前でアルゼンチン・バックブリーカーを極められ、《太陽の塔》を背にダイビング・ボディ・プレスを放つ。そうやって浮かび上がるそれぞれのニュータウンは、たしかに表層的にはほとんど変わらない。でも、やはり明確な差異を孕んでいた。それらは異なる歴史、異なる地域、そして異なる空間を持っていたのだ。

 

 こうして、私は徐々にニュータウンとのチューニングを合わせていった。それは幼少期の記憶と思春期の空洞とを、現在地から紡ぎ直すような営みだったのだろう。父親との長年の遺恨を解消した志賀直哉ではないが、私はニュータウンと少しずつ「和解」していったのである。

 

 実際にそれはどこかで、実の父に対する屈折した感情とも重なって思えた。そんな〈父としてのニュータウン〉を、今ならもう、私は素直に愛せるような気がするのだ。

 

 

 夢中で痛みに耐えていたら1時間弱で施術は終わった。

 

 どうやら何事もなくタトゥーは彫り上がったようだ。鏡を見ると、針を刺した皮膚がやや赤らんでいるが、黒のインクで描かれた鋭いストロークが左胸に翻っている。細部に至るまでタイトなライン。初めての刺青は、申し分ない出来栄えだった。

 

 患部にワセリンを塗ってガーゼを貼る。数日後には瘡蓋になるが、しっかり保湿を欠かさなければ一週間程度で肌に馴染むはずだと、彫師にアフターケアの説明を受けてからスタジオを出た。眼前にはレンガ敷きの落ち着いた並木道。そうだ、ここはセンター南なのだった。

 

 駐車場の隅で煙草を一本吸い、導線の通り「港北 TOKYU S.C.」に飲み込まれる。昔よく行ったゲームセンターや映画館を回ってみると、いずれも胸中に色褪せた郷愁を喚起させた。人はどこであれ、過去に触れた街に対してノスタルジーを覚えるのだろうか。

 

 そのまま駅を素通りして歩を進め、都筑まもる君の勇姿を拝んでからセンター北へ。あの頃と変わることなく、駅舎上のショッピングセンター「あいたい」や、高架下のペットショップが残っている。その一方で、「ノースポート・モール」をはじめ、これでもかと新しい商業施設が林立していた。その新陳代謝の早さに軽い目眩を感じながら、かねてより知る「モザイクモール港北」に逃げ込む。例の、観覧車を設えたセンター北のシンボルだ。

 家族連れで賑わうフードコートにて、なぜか一人「びっくりドンキー」のハンバーグを食べ終えると、不意にその観覧車に乗ってみようと思い立った。

 

 早速エスカレーターで乗り場まで上がる。一人だと訝しがられる気もしたが、ここまで来たら関係ない。空いていて値段も安かったから、手前に滑り込んできたゴンドラに何も考えず飛び乗った。

 

 ──観覧車はゆっくりと上昇する。高度が上がるにつれて視界も開けていく。駅ビル、広場、バス乗り場、線路、住宅、緑地、煙突。頂上付近に近づいてようやく、港北ニュータウンを一望できた。住んでいたマンションも、いつも遊んだ公園も、その近所の電波塔も、すぐ手が届きそうなところに見える。間違いない、このありふれた、何の変哲もない風景が、確かに私の「根拠地」なのだ。……

 

 故郷はあらゆる人が持っていて、変えることのできないものだ。だから私にとってこの街は、一度刺れたら二度と消せない、タトゥーのようなものだった。

 

 “New Town”と刻んだ馬鹿みたいな胸元がまだズキズキと疼く。自らのルーツを文字通り血肉化した身体。今後、もし自分を見失うことがあっても、この彫り物を方位磁針にすればいい、ここがどこだろうと、ここはここでしかないし、私は私でしかないのだから。

 

 そう自分に言い聞かせ、ふと顔を上げると、ちょうどゴンドラはショッピングモールの屋上へ舞い戻っていた。

 

(なかじま・はるや)

 

 

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