本を読む #070〈ルイ・アラゴン『パリの神話』と『イレーヌ』〉

(70) ルイ・アラゴン『パリの神話』と『イレーヌ』

 

小田光雄

 

ルイ・アラゴンの長編小説『レ・コミュニスト』(小場瀬卓三他訳、三一書房)を入手したので、別のところで書くつもりでいるけれど、告白すれば、アラゴン体験は稀薄なのである。

 

それはどうも十代の頃に読んだ『パリの神話』(当時のタイトルは『パリの農夫』だった)が尾を引いている。現在から見ると信じられないかもしれないが、1960年代には多くの世界文学全集が出されていて、その中でも私たちにとって馴染み深かったのは、河出書房新社のグリーン版の『世界文学全集』だった。この全集はまさしく函も本体もグリーンで、B6変型判と小さく、同じ河出のA5判の世界文学全集と比べて定価も安かった。さらに第1集55巻、第2集25巻、第3集20巻と続き、全100巻が刊行され、これでドストエフスキーやトルストイを読み、何とロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』、ショーロフ『静かなるドン』も読了するに及んだ。確認してみると、『ジャン・クリストフ』(片山敏彦訳)も『静かなるドン』(横田瑞穂訳)も全3巻で、今さらながらよく読んだと思う。

 

ただそれは中高生時代のことで、この『世界文学全集』収録の現代文学には目が向いていなかった。だが大学時代になって、この全集にジョイス『ユリシーズ』、ムシル『特性のない男』、ダレル『ジュスティーヌ/マウントオリーヴ』、ヘンリー・ミラー『南回帰線』、サルトル、アラゴン『汚れた手他/パリの農夫他』などもあり、ここでしか読めないことに気づかされた。それで1970年代に入って、アラゴンの『パリの神話』(以下この表記とする)を購入したのだと思う。

 

ところが『パリの神話』は「序文」に続いて、「オペラ座横丁」に入るのだが、そこでは大通り、横丁、ホテル、劇場、書店、キャフェなどが詳細に語られ、それらにまつわる新聞記事や貼られていた告示などが引用され、さらには詩や寸劇も戯れのように展開されていく。読者の私にしても、アラゴンのシュルレアリストとしての文学的実験に通じていなかったし、これらのパリの街の風景に無知なので、はっきりいってよくわからなかった。それは訳者の佐藤朔も同じだったようで、「解説」において、その翻訳は「難物」「手に負えないもの」だが、若い桜木泰行の「献身的努力のおかげで」訳了できたと告白している。

 

またタイトルにならって、「パリに出て来た『農夫』にとっては、パリの人工的な町々や自然が、新鮮な驚きをもたらし、いたるところに未知なものや驚異を発見し、またそれらをパリのどまんなかで開拓しようとする。『農夫』とは詩人ということであり、物語をつくる人であり、パリという最も都会的な都会と『農夫』という言葉の対照を面白く思ってついた題であろう」とし、「月報」には「オペラ座横丁」などの地図を掲載したりしていた。『パリの農夫』の原書は1926年に出され、それが収録された『世界文学全集』46の初版刊行は1962年だったのであり、よくぞ翻訳したというべき一冊のように思われた。

 

それから20年ほど経ち、岩波書店からベンヤミンの『パサージュ論』全5巻が刊行され始め、その第1巻にパサージュ・ド・ロペラ=「オペラ座横丁」が出て来て、アラゴンが「一三五ページ費やしてこのパサージュのことを書いている」と記し、『パリの農夫』初版に引かれたカフェのメニューを転載している。さらにベンヤミンは「このページ数の各桁数字の和のうちには」9人の詩神たちが隠されているとし、その名前を挙げているが、これは原書に当らないとわからない。ベンヤミンの『パサージュ論』は1927年半ばから始まっているとされるので、それは前年に上梓されたアラゴンの『パリの農夫』を読んだことで、大いなるインスピレーションを得たと考えられる。

 

同じく日本においても、アラゴンやベンヤミンの試みは始まっていて、それらは『近代出版史探索Ⅱ』343の今和次郎たちの『モデルノロヂオ』『考現学採集』、同350の安藤更生『銀座細見』としてである。これらの3冊はいずれも昭和5、6年、つまり1929、30年の刊行なので、『パリの農夫』や『パサージュ論』とパラレルだったのである。とすれば、パリと東京において始められていたことになり、今や安藤たちは日本のアラゴンやベンヤミンだったのではないだろう。

 

その一方で、アラゴンは1928年に『イレーヌ』というポルノグラフィを上梓している。これは1976年に生田耕作訳で奢灞都館から刊行された。「序文」を寄せているマンディアルグによれば、初版本は150部の作者名もない秘密出版で、アンドレ・マッソンの銅版画に飾られ、同年にはこれも同じ版元とされるロード・オーシェ=ジョルジュ・バタイユの『眼球譚』も出されている。マンディアルグは『イレーヌ』の出版について、その真価は「世間の顰蹙を買うこと」にあり、「著者の野心の目標がスキャンダルを巻き起こすことであったのは疑いの余地のない事実だ」と述べている。『イレーヌ』は戦後の53年に再版本がやはり秘密出版のかたちで出され、カミュはそれで『イレーヌ』を読んだとされる。

 

後にアラゴンは『レ・コミュニスト』に象徴されるように、マルキストとしてフランス共産党に同伴する文学者のイメージが強いけれど、1920年代はアンドレ・ブルトンと並ぶシュルレアリスム運動の中心人物だったのである。最後になってしまったが、Le Paysan de Paris は『パリの農夫』、『パリの神話』ではなく、『パリの田舎者』、もしくは『パリの耕作者』としたほうがよかったように思われる。

 

 

—(第71回、2021年12月15日予定)—

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