本を読む #97〈水木しげると東考社版『悪魔くん』〉

(97)水木しげると東考社版『悪魔くん』

 

                                        小田光雄

前回の佐藤まさあきと同じく、水木しげるも貸本マンガから青年誌、少年誌へと進出し、佐藤と異なり、コミックの巨匠として顕彰されるに至っている。それは手塚治虫ほどではないにしても。

 

1999年に『水木しげる貸本傑作大全』Ⅰ、Ⅱ、人類文化社発行、桜桃書房発売として全十巻が出されている。ただ水木自身の「あとがき」は付されているけれど、解題も解説もないので、復刻テキストがどの出版社に基づくのか不明である。それでもこれまで貸本マンガ史をたどってきたことからすれば、長編の場合、Ⅰの第一巻『墓場鬼太郎』とⅡの第四、五巻『河童の三平』は兎月書房、Ⅰの第三巻『鬼太郎夜話』は東考社のそれぞれの版の復刻だと考えられる。

 

そこでまたしても、私の1960年前後のささやかな貸本屋体験に戻るのだが、『墓場鬼太郎』と『鬼太郎夜話』は読んでいた記憶がある。農村の雑貨屋を兼ねた貸本屋にそれらが本当にあったのかと問われれば、断言できないにしても、これまでずっと言及してきた短編誌においてだったのかもしれない。それは佐藤まさあきの『黒い傷痕の男』も同様だった可能性も考えられる。おそらく地方独特の貸本マンガの流通も作用していただろうが、とにかくそのようにして出合ったことは間違いない。もうひとつ付け加えれば、当時の紙芝居に鬼太郎もどきのものもあり、それも見ていたことを覚えている。

 

その後水木は、これも佐藤まさあきと同じく『週刊少年マガジン』にリクルートされ、『テレビくん』で売れっ子のマンガ家への道を進み、「ゲゲゲの鬼太郎」の歌も聴こえてくるようになる。しかし『テレビくん』ならぬ『悪魔くん』の64年の東考社からの刊行は「悪戦苦闘の連続」であった。桜井は60年に貸本屋を席捲した白土三平『忍者武芸帳』の成功を念頭に、『悪魔くん』を全五巻で予定し、「逆境にある作者の売り出しと超零細の版元からの脱皮という夢を、奇襲(ママ)的に一気に実現しようと企んだ」のだ。水木も桜井に応え、全力を上げ、『悪魔くん』を描いたし、桜井も「名作だ」と確信したが、水木のほうは作品に対する自信はあったけれど、その成功に関して懐疑的だった。不幸にして、それは現実化してしまった。桜井は『ぼくは劇画の仕掛人だった』で次のように述べている。これは当時の貸本マンガの返品も含んだ流通販売の実態を伝えてリアルなので、少しばかり長い引用をしてみる。

 

第一巻の「悪魔くん」は二千三百を刷り、そのすべてを取次店に納品した。通常のマンガの場合、取次店から版元への精算は三カ月である。納品後一ヵ月ほどで返品が出版社に来はじめ、一ヵ月半ほどで最終的な実売数は九百二冊である。(中略)これではとても出版社はとてもやっていけない。出版に要した代金も全額はもどらないという状態である。

このころの貸本の流通状況では、返品は際限なくくるのだが、返品の再出庫、あるいは追加注文はよほど売れている作品のものでなければ考えられず、先行きの期待は皆無だった。しかもシリーズ物の出版の場合、一巻を発行して一ヵ月がたち、成績の予想がつくころには、二巻目はすでに印刷、製本の段階にあり、また作者は三巻目の執筆に着手しているというのが普通で、第一巻の赤字に気づいたときは、すでに三巻分の大赤字を背負わされているというわけなのだ。

この「悪魔くん」第一巻の結末は、ぼくを完全に打ちのめしてしまった。作品の内容に自信があっただけにそれはなおさらだった。

 

そのために桜井は全五巻を予定だった『悪魔くん』を三巻で完結するようと水木に依頼するしかなかった。それはひとまずおくにしても、1960年代に貸本屋は3万店あったと推定されるし、64年の『悪魔くん』発売時にも2万店以上は存在したはずだが、第一巻の実売はわずか九百冊だったことになる。それは実際に貸本マンガの新刊を仕入れる貸本屋が減少していたことも事実だが、この当時の貸本屋がすでに新刊仕入れによってではなく、その多くが既刊本を使い回して成立していたことを伝えているのかもしれない。私が体験した貸本屋がそうであったように。

 

もちろん所謂出版社・取次・書店という正常ルートにしても、マンガ自体が安定した市場を有していなかったし、売れないことに加え、返品と取次の支払い条件は絶えずつきまとっていたと思われる。また出版社・貸本取次・貸本屋というもうひとつのルートであっても、このような返品委託制に基づく流通販売条件に悩まされていたことになる。

 

しかしこの『悪魔くん』第一巻の九百部は思いがけずに松田哲夫と鈴木宏によって読まれるのである。鈴木宏『風から水へ』(「出版人に聞く」番外編)において、松田から「戦後の漫画の最高峰」として「貸本版」を貸与され、その「ニヒリスティックな傑作」を読んで衝撃を受ける。鈴木は続けて告白している。

 

そんなことで、私は漫画を読むようになったわけです。ただ、なぜか、水木しげるはこの作品以外は読みませんでした。何となく、『悪魔くん』は例外的な傑作であって、水木しげるにこれ以上の作品はないではないか、他の作品を読むとがっかりするのではないかと恐れたのではないかと思います。

 

その『悪魔くん』の読書の延長線上に漫画熱が高まり、鈴木は『漫画主義』の向こうを張るように、漫画批評専門誌『漫画的』を創刊する。鈴木のお気に入り漫画家は長谷邦夫、滝田ゆう、東海林さだおで、第一号の「漫画批評宣言」に続いて、第二号は滝田ゆう、第三号は長谷邦夫を特集したようだ。そうして鈴木は国書刊行会で幻想文学やラテンアメリカ文学の編集者となり、海外文学を中心とする風の薔薇、後に水声社を興し、松田のほうは筑摩書房に入り、「現代漫画」の編集に携わっていくのである。

 

(おだみつお)

 

—(第98回、2024年3月15日予定)—

 

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