『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.019

Ⅲ 日蓮と政治

 

名越家と教団の立場

 

北条義時以来、得宗家にとって主に三つの脅威が存在した。一つは頼朝の血をひく将軍家であり、二つには頼朝以来の有力御家人であり、三つには同じ北条一門にありながら常に得宗家に対峙し続ける名越家である。北条得宗家は、日蓮の活動期までに前二者の排除には成功したが、名越家の脅威は残存していた。なぜ同じ北条一門の名越家が得宗家の脅威となったのか。

 

名越家の祖は、北条義時の次男・朝時である。ところが朝時は、兄の泰時が執権職を継いだことに当初から不満をもっていた。朝時には泰時を見下す「我こそ嫡流なり」との強い意識があり、その原因を泰時の出自に求める説も提示されている。朝時の生母は御所の女房で比企氏の姫の前である。一方、泰時の生母は不明で、父・義時は泰時よりも次男の朝時を厚遇していた。泰時にとって血筋こそが執権継承の拠り所である。にもかかわらず、それに対して公然と嫡流意識を表明する名越家の存在が脅威となったのは当然である。

 

一二四六(寛元四)年、泰時の孫である時頼が執権職に就くと、朝時の嫡男である名越光時は「我は義時が孫なり。時頼は義時が彦なり」と述べ、前将軍であった頼経を担いでクーデターを謀る(宮騒動)。ここで特筆すべきは、光時への同調者が多数にのぼったことである。評定衆から後藤氏、千葉氏、三善氏らが光時方に加わり、さらに相模国最大の豪族であった三浦氏など多数の有力御家人が時頼から離反する構えをみせた。結局、このクーデターは失敗に終わる。しかし時頼は間髪を入れず三浦氏を滅ぼす(宝治合戦)。得宗家にとって名越家を中軸とする勢力の脅威が、いかに切迫したものであったか推察されよう。

 

さらに一二五六(康元元)年、時頼が執権職を退くと、執権とそれを補佐する連署の職は、名越家を包囲する形で目まぐるしく動き始める(表4、一七四頁参照)。このたらい回しともいえる権力の委譲によって、得宗専制への基盤が整えられていき、一二七二(文永九)年の二月騒動で名越家を凋落させ、国内における得宗家の脅威は消滅する。日蓮の前期(一二五三-七一)は、まさに名越家をめぐる北条一門の熾烈な抗争の渦中にあったのである。

 

一方、日蓮の初期の門下に目を転じると、先にも指摘した通り、名越家と同じく将軍家に重用されながらその後、得宗家に謀殺ないし疎まれた御家人の血を引くと推定されるものが存在する。そしてこれらの血縁を軸に教団の教勢は拡大した。教説の問題以前に、教団の構成は反得宗の色彩が濃いものだったのである。日蓮はすでに一二五三(建長五)年の安房における東条景信による弾圧の背後に、極楽寺重時の存在を挙げている。執権に次ぐ連署の立場にいた重時が、鎌倉からほど遠く、しかも無勢に近い立教直後の日蓮を、なぜ弾圧する必要があったのか。これも名越家との関係に注意を払う必要があろう。

 

重時は朝時のすぐ下の弟であったが、常に得宗家から重用され続けた。執権泰時が朝時を抑えるために重時との連合を図ったからである。長男と三男が手を組んで次男を封じ込める。以後、重時を祖とする極楽寺家は、名越家に対する抑えとして得宗家との二人三脚によって栄華を極めていく。ところで、仮に日蓮が名越家と近しい存在であったとすれば、日蓮の教線の拡大が重時の目には名越勢力の伸張と映じたはずである。重時が、その動向を早い時期から警戒するのも当然であろう。川添昭二氏が指摘する通り、安房での対決の延長線上に、鎌倉での日蓮弾圧がある。

 

ここではさらに踏み込んで、日蓮と名越家との接点を考察したい。佐藤弘夫氏は、日蓮が幼少期に両親とともに御恩を被った「領家の尼」は、東条御厨の領家であろうとされるが首肯できる。そしてその領家とは、名越家ではなかったか。

 

日蓮の檀那であったことで知られ、名越朝時の妻との伝承もある「名越の尼」は、一二七一(文永八)年の弾圧と続く二月騒動の時期に日蓮の元を去っており、それ以前からの門下であった。一二五三(建長五)年、地頭の東条景信による領地強奪に対抗して日蓮は「領家の尼」に加担して訴訟指揮を執る。この景信の領地強奪は、光時の配流によって名越家の力が衰えた時期と重なっている。重時が圧迫を加えるには好機だったといえよう。

 

訴訟は、問注所の裁断を仰ぐものだったが、異例の速さで領家勝訴に決したことを、日蓮は法華経信仰の験と誇る。後に四条頼基が讒言によって弾圧を被った際、日蓮は陳状を下書きし、それを富木常忍や比企能本らに清書させて上申の準備をしている。領家訴訟も、同様の人的ネットワークの活用があったと思われる。当時、日蓮はまだ鎌倉に出る前だったが、千葉氏の被官だった富木、問注所との往還も指摘される太田など、下総にはそれにふさわしい人材が揃い、千葉氏の協力も得られたのではなかろうか。

 

すでに中尾堯氏が指摘しているが、千葉氏十代当主の胤貞は、亡父の九代当主宗胤とともに名越氏の遺骨を保持しており、千葉氏と名越氏の深い接点がうかがえる。さらに宗胤は幼少時の一二七六(建治二)年、父・八代当主頼胤の一周忌に当たり日蓮から曼荼羅を送られ、一方、胤貞は子息を日蓮の弟子としていることから、千葉氏には、頼胤(一二三九-七五)の時代から続く日蓮との強い結びつきが想定される。実際、日蓮が立正安国論を与えた八木胤家は、頼胤の幼少時にその後見として重要な役割を果たしたという。

 

領家方の勝訴後、鎌倉名越邸の至近の要所に草庵が用意され、日蓮に拠点を提供している。これも千葉氏、名越氏、日蓮の重縁によるものと考えられる。

 

 

—次回5月1日公開—

 

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