(79) 東考社と小崎泰博『幻の10年』
小田光雄
小崎泰博の『幻の10年』は、ほんまりうの『息をつめて走り抜けよう』が『ヤングコミック』に連載されていた同時代に描かれたと思われる。前者は後者と異なり、A4判並製96ページの一冊で、1980年に東考社から刊行されている。東考社は辰巳ヨシヒロの兄の辰巳義興が営む出版社で、拙稿「太平出版社と崔容徳、梶井純」(『古本屋散策』所収)の梶井の『戦後の貸本文化』の版元である。
おそらく東考社にしても、『幻の10年』にしても、もはや忘れられていようが、40年前には並製の小型本や大型本も地方・小出版流通センターを取次窓口として、書店でも流通販売されていたのである。そのようにして、私も『幻の10年』や『戦後の貸本文化』を入手している。
『幻の10年』の「あと書き」というよりも、解説ともいうべき「地理の小崎と呼ばれていた男の劇画」を寄せているのは、かわぐちかいじ に他ならず、小崎もまた ほんまりう やかわぐちと同様に明治大学漫画研究会に属していたことを伝えていよう。まず『幻の10年』の物語をラフスケッチした上で、かわぐちの言説に言及するつもりでいた。だがこの特異な作品に関しては かわぐちのチェチェローネを通じて、小崎の世界へと入っていくほうがよいのではないかと判断したこともあり、そのように進めてみる。
かわぐちはいきなり「これはまさに衝撃であった」と始め、「ビッシリ描きこまれた『世界』に引き込まれた」、「見る者はこの作品世界を体験する、それだけなのだ。これは恐ろしいことである」と嘆息すらももらし、続けている。
“劇画とは「絵」なのだという単純な事実をいまさらながら思い知らされた。この作品には背景を流線で流したり、スミベタでつぶしたりして話をうまく持っていこうとする常套的な劇画処理が一コマもない。それでいて話が成立している。怖さの正体はここにあった。いい加減なストーリイ・テリングや都合の良い思いこみを排し、一人の少女が従兄弟や友人との関係を通して変貌していく有様を全部眺めてやるんだという意欲がみなぎっている。小崎泰博は甘えていない、また見る者を甘えさせないと迫ってきている。中途半端を好む今の劇画界にこの作品を受け入れる余裕はないであろう。(後略)
そして『幻の10年』の綿密さとは地理の持つ複雑さや絶対さに魅せられる資質を有する小崎でしか描けない「世界」なのだともいっている。トラックが踏切を通りすぎるシーンを背景として、2人の男女が精緻に描かれた表紙はそれを表徴しているかのようだ。
そのかわぐちの言を導火線として、『幻の10年』をたどってみよう。郊外らしい民家が描かれ、その家の主婦と訪ねてきた青年の会話から始まっていく。青年は娘の節子に会いにきたようで、彼女がローラースケートで駅まで通っていることを知る。その帰りに青年はローラースケートで帰ってくるホットパンツ姿の節子とすれちがい、「お嬢さん/お尻の肉がはみ出てますよ!」と後ろから声をかけると、彼女はふり返り、「馬鹿野郎」と応じる。これがイントロダクションといえよう。最初の部屋と渓谷を描いた1ページも含めると、ここまで5ページ、20コマで、それだけでも「劇画とは『絵』なのだ」というかわぐちの感慨が肯われる。
それから家に帰った節子と母の話に切り替わり、青年は節子の従兄の茂男で、10年前に九州の田舎で一緒に遊んだことを憶えているかと母に問われ、節子は「あっさつきの奴」かと思う。茂男は東京の美大に入り、銀座でグループ展を開くので、パンフレットを持参してきたのだ。母の言葉から節子が22歳の娘だとわかる。彼女は自分の部屋に入り、アルバムを取り出し、見入る。そこには小学生の茂男と節子が一緒に写り、「元気だった」「ええ元気よ」という想像上の会話を交わすのである。ここまで4ページ、31コマで、彼女の部屋の机、本棚、椅子や電気スタンド、絵やポスターなどの背景も描かれ、最初のページの上の部分が彼女の部屋の一角らしいとわかる。それならば、下の部分の森林を伴う渓谷は何なのかということになるが、おそらく2人の離れていた「幻の10年」のカオスを表象しているのではないだろうか。
それに続くのは銀座のグループ展の節子と茂男の10年ぶりの再会、美大生たちと出品画の片鱗が描かれたシーンで、茂男は仲間の村瀬に従妹のT大独文科の才女だと紹介する。絵にはルドン、ゴヤ、エルンストもどきもあり、節子は「太初に技術ありて」というが、村瀬のメフィストフェレスを描いたような「ホムンクルスフランケンシュタイン」は時々夢に出て来る顔だと評したりする。
ここまで14ページだが、映画にたとえると、イントロダクションはアメリカ映画、母と娘の会話と家の内部は小津安二郎、グループ展はフランス映画のようであり、さらに綿密となって続いていく執拗なまでの描きこみは、劇画内にもうひとつの映画や写真をダブルフォーカスさせているようだ。それに合わせるように展開されていく会話はドイツ観念論の森をさまよっているイメージを伴い、さかしまの世界までをも表出させているし、モノクロの精密な背景と人物描写は重苦しいまでにのしかかってくる。それでも見開きの94、95ページはそうした世界からの脱出を伝えているようで、それが物語のカタルシスとなっていよう。
この『幻の10年』の後をたどりたいと思うが、かわぐちのいう「中途半端を好む今の劇画界にこの作品を受け入れる余裕はないであろう」との言は残念ながらそのとおりになってしまったようでもあり、ダイレクトに見ることをお勧めするしかない。それに次の小崎の作品にまみえていない。いや私が見ていないだけで、出ているのかもしれないが、そうであれば再見できるかもしれないので、何よりもうれしい。
—(第80回、2022年9月15日予定)—
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