No.30 『「核廃絶」をどう実現するか』
矢口英佑〈2020.8.5〉
本書は「核廃絶」を願う著者の姿勢がストレートに行間から溢れ出ていて、その意味では、単純明快である。
だが、書名にある「核廃絶」を〝どう実現するか〟と問いかけられると、事はそう単純明解とはいかない。たとえ核の廃絶に大いなる賛意を示している人でさえも。
一例を挙げるなら、9年前の東日本大震災による福島原発事故で、今もって故郷に帰れず、苦難の生活を強いられている被災者たちがいることは多くの人が知っている。でも、日々の生活の中で自分のこととして、こうした被災者たちに寄り添っている人となると、その数は激減するにちがいない。ましてや75年前の広島、長崎での原子爆弾による犠牲者やその被害について、記憶に留め続けている日本人は残念ながらさらに少ない。
原発事故では、1986年4月にチェルノブイリ原発事故が起きている。福島原発事故と同じく「レベル7」の最悪の事故での被害者数(死者、患者、被ばく者数など)は不明確なままで、現在もチェルノブイリ原発半径30km圏内への立ち入りが禁じられている。
こうした原発事故がもたらす悲惨な体験をしながら、原発推進を見直し、代替エネルギーへの転換を図ろうとする日本政府の動きはあまりにも鈍かった。そのような中での福島原発事故だったのである。これ以降、日本の原子力発電事業には安全基準が厳しくなった。だが、今後、電力供給源としての原発をどうするのかとなると、原発推進派と即時廃止派だけでなく、さまざまな考え方が存在する。しかも、福島での破壊された原発とその放射性物質の処理に安全な解決策が見いだせないままに国は原発再稼働を徐々に進めてきている。
そして、多くの国民は原発が恐ろしい災厄をもたらす危険性をはらんでいることを知っているにもかかわらず、その存在を忘れがちであり、政府の原発行政に批判的関心を常に持ち続ける人は少ない。
本書には「Ⅳ 〈論考〉岐路に立つ原子力の平和利用」の1章が納められ、原発は最終的にゼロを目指し、政府は原発に重点を置いた従来の方向から代替エネルギー重視に発想を転換し、研究開発に予算を大幅に注入するよう提言している。
きわめて穏当な提言であるにもかかわらず、今の政府はこうした声に耳を傾けようとはしていない。
本書は原発をも含めた「核廃絶」にどう立ち向かうべきかに多くのページが割かれていて、その著者の思いは、冒頭に置かれた次の言葉に込められている。
核保有国、核兵器を所有したいと考えている国の指導者に言っておきたいことがある。あなた方は原爆による破壊力を伝聞や記録でよくご存知のはず。しかし、じつは何一つ肌身で原爆被爆の実相を感じ取ってはいない。きのこ雲の下で、一瞬のうちに無数の罪もない市民が抹殺され、即死でない者は血の海の中や炎に焼かれながら、のたうち回って絶命し、生き延びた者も終生、放射能障害にさいなまれた。あなた方が核兵器を所有し、また保有しようとすることは、恥ずべき人道に対する犯罪の加担者となることだ――。
核兵器がもたらす悲惨な結果をこのように具体的に伝え、訴えることができるのは、世界中で日本人だけである。二度にわたって、原爆を投下された人びととその子孫だからである。
著者は「肌身で原爆被爆の実相を感じ取った」日本人として、人類の安全な生存を手にするために、原爆の恐ろしさを世界に向けて訴え、「核廃絶」の声を身を挺して上げ続けてきたのである。
しかし、日本国内の原子力発電稼働をめぐる今後のあり方にでさえ、一致した方向性が定められない現状のなかで、「核廃絶」を目指すことが、国家間、地域間の関係だけでなく、政治、経済、軍事等とも大いに関わるだけに、いかに困難な道のりであるかがわかる。
本書は、その困難な道のりの歩みを止めず、核廃絶の願いを込めて、みずからの声を上げ続けてきた著者の粘り強い活動の軌跡である。収録されている「Ⅰ 誰が真の専門家たり得るのか」、「Ⅱ 核兵器の非人道性と安全保障」、「Ⅲ 誰にでもできる政治参加へ」は、まさに著者のその証にほかならない。これらはNPO法人ピースデポが発行する『核兵器・核実験モニター』第366号(2010年12月15日)から513号(2017年2月1日)まで、6年以上にわたって「被爆地の一角から」というシリーズで連載されたものである。このほかにすでに紹介した「IV」の論考と「Ⅴ〈講演〉憲法改定は日本に何をもたらすか」が収録されており、いずれも憲法第9条改憲論者の安倍晋三氏本人への不信感を露わにするほか、自民党保守派や安部内閣が目指す軍備増強、集団的自衛権の解釈と自衛隊の海外派兵、日本国憲法改憲論、日本の武器輸出禁止解除、特定秘密保護法案、原発推進等々のキナ臭さを繰り返し指摘し、どう対応すべきか、その方向性を示している。
たとえば、「核抑止力」という、国家の安全を保障する、いかにも有効と思われがちな手段について、著者はその危うさを次のように突いている。
抑止という考えは相手がよほど小国か、または軍事力の貧弱な発展途上国であれば、ある程度まで通用する手段であるかも知れない。しかし中国のような〝大国〟や北朝鮮のような〝独裁国家〟に対して抑止を誇示すれば、自国に対する挑発として受け止め、ますます軍拡に走るであろうことは(中略)、想像に難くない
著者には安倍晋三という〝国士気取り〟の首相の存在と、彼を支持する自民党、維新の会の議員たちが「北朝鮮や中国の脅威を奇貨として偏狭なナショナリズムを鼓吹し、煽って「国防軍」の設置に賛同を得て」、憲法第9条を改憲し、集団的自衛権の行使を可能にしようとしていることへの強い警戒感がある。その根本には、徴兵制の復活と若者を再び戦場に送る合法的制度策定への激しい拒絶があり、その信念に基づいた阻止行動の実践がある。だからこそ、次のように言うのである。
「徴兵制」の復活は決して絵空事ではないのだ。自分たちは安全地帯に居ながら、若者たちにそうした役割を押しつけることを、改憲派の政治家連中なら平気でやりかねないだろう。若い人たちに知ってもらいたいのはこの点なのだ。憲法が古くなってきたからだとか、米国に押しつけられたものだから、などといった軽い気持ちで本当に改憲に賛成していいのか、自らだけでなく自分の子どもや孫たちのことも考えて、誤ったナショナリズムに決して踊らされないよう戦中派の一人として切望してやまない
著者の核廃絶に向けた発言と活動、加えて、再び戦場に若者を送ってはならないという切実な願いは、本書に収められた核廃絶とは真逆の事象に対する警鐘の強さににじみ出ている。しかし、それをあざ笑うかのように、この間に著者の思いを踏みにじる現実が日本でいつの間にか足場を築き始めている。
集団的自衛権の解釈と自衛隊の海外派兵しかり、特定秘密保護法案しかりである。2020年7月29日には、原子力発電所の核燃料を再利用する青森県六ケ所村の再処理工場が安全対策基準に適合と原子力規制委員会が決定した。核燃料を再処理して取り出したプルトニウムは原爆にも転用できるわけで、3年前に鬼籍に入った著者にこの現実は受け入れ難いに違いない。
あらゆる世代の人間が被爆者の思いを継ぎ、訴え続けていかなければならない。さらに大きな声で。そう頭でわかっていても、苦しい。自分に何ができるのか、何を語る資格があるのか。「残される者」の責任の重さに押しつぶされそうになる」(「核廃絶へ進む人へのエール」本書所収)
こう述べるのは、著者の遺志を受け継ぎ、核廃絶活動を続ける長崎大学核兵器廃絶研究センター准教授の中村桂子氏である。核廃絶の前に立ちふさがる現実の壁がいかに高く厚いかを教える慨嘆である。
だがその一方で、氏は本書に収められた数々の言葉は著者からのエールであり「大丈夫だから、前を向いて生きなさい」と語りかけてくれていると思えるとも述べている。
確かに、核廃絶運動の道のりは険しく遠い。そして、壁にぶつかり心折れそうになることも珍しくないだろう。そのような時、著者の核廃絶に向けた信念と冷静で論理的な言説に力づけられるのは間違いない。
「私たちは核廃絶に向けての歩みを止めてはならない」という著者の声が聞こえるようである。
(やぐち・えいすけ)
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〈次回『歴史に学ぶ自己再生の理論[新装版]』、2020.8月下旬予定〉