『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.008

Ⅰ 日蓮の出自について

日蓮の居宅

現在、伊東氏の館跡は、物見塚公園と伊東市役所になっている。その敷地の北東側に仏現寺があり、ここに日蓮の草庵跡がある。
伊東祐光は鎌倉で将軍御所に出仕する。一二五二(建長四)年四月三日、前将軍頼嗣の帰洛に路次奉行で随兵し、一二六一(弘長元)年八月五日には病を理由に出仕を辞退した(『吾妻鏡』)。日蓮は同年六月中旬に伊東館の脇に移っている。出仕辞退は日蓮の移動か、祈祷を依頼した病との関連だろうか。

 

伊東館は物見が丘の高台と隣接する高地にある。相模湾から三浦半島や房総半島も一望でき、中国大陸との貿易で栄えていた港湾を見渡せる。裏手に、今も伊東の祖と仰がれる伊東祐親の墓が残る。

 

日蓮の居宅には、ある特徴がある。鎌倉名越の草庵は、妙法寺・安国論寺として残り、佐渡の一の谷には妙照寺が残る。身延にも草庵跡がある。いずれも谷戸で敵の襲撃を受けた際の防御にすぐれた場所を選ぶ。草庵前に川が流れ、背後に山を抱える。入り口は狭く、最奥の草庵までは急な階段や勾配、曲折があり、要所要所に警護所と思われる建物を配置する。要所の曲折は右折ないし右回りで、騎乗での矢が打ちにくい。これらは鎌倉の御家人屋敷にも見られる特徴だ。敵の奇襲に備えたのは明らかで、背後の山の尾根を伝って逃げる小道も用意された。日蓮の伊東の居宅跡も同様の特徴を備える。広さだが、たとえば梶原景時の館は約五〇坪ほどだった。日蓮の草庵跡も身延では一〇〇坪近くあるが、鎌倉・伊東・佐渡では景時館と同程度の広さだ。当時の庶民が、地面を掘って板壁をはめた掘立て住居だったのとは比較できない堅牢な要塞である。

 

この草庵の建造には、相当の時間と費用が必要だ。日蓮は本格的な居宅に入る前に、一定の時間を別の場所で過ごす。安房を出た日蓮は、鎌倉に入る前に下総に腰を下ろした。伊東では川奈の船守弥三郎に三〇日ほど世話になり、佐渡では塚原から一の谷に移る。身延でも鎌倉から到着して一か月間、居住までに時を過ごす。これらは、草庵の建造にかかった時間ではないか。

 

ただし、伊東には他の三か所と違う点がある。それは、日蓮の居宅が敵の奇襲を受けた際、逃れる山側の上に伊東館があり、居宅の坂下、川沿いにも複数の一族の館が配置されていることだ。伊東一族で日蓮を抱える。このような伊東氏の姿勢は、親族関係を想定せずに成立するだろうか。日蓮と祐光の親族的結合を考えるのが自然だろう。

 

 

江間浩人

 

 

—次回6月1日公開—

 

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