『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.006

Ⅰ 日蓮の出自について

妙一尼

日昭の母は、工藤祐経の娘もしくは祐経の子・伊東祐時の娘とされ、妙一尼と呼ばれた。日蓮が漢文書簡を送った七名のうちの一人である。

 

工藤祐経は一一六六(仁安元)年、京都で平重盛を烏帽子親として一五歳で元服し、一一七二(承安二)年には後白河院の武者所に出仕した。その教養を頼朝は深く愛し、『曽我物語』では「随分の稠の者」とされた。寵愛を受けて権勢を誇っているもの、という意味だろう。妙一尼を祐経の娘とする説では、尼は長女として治承中(一一七七-八一)に京都で生まれたという。当然、父から教養を受け継いだろう。

 

妙一尼は、「さじきの尼御前」とも呼ばれた。夫の印東二郎左衛門尉祐照が頼朝の近臣で、将軍が由比が浜の眺望を楽しむため高台に作った桟敷を管理しており、桟敷殿といわれた。後に嫡男・印東左衛門尉祐信が家督を継ぎ、桟敷の管理を担った。その妻を「桟敷の女房」という。祐信と桟敷の女房の墓所は、頼朝の乳母・比企氏の館があった比企が谷の南側の高台に残る。父・祐照が、奥州参陣の成親の孫であれば、合点のいく話である。

 

日蓮には幼少時代を回顧し、ともに懐かしむ女性門下が存在する。特に多くの叙述を残すのが、妙一尼と光日尼の二人だ。妙一尼は日蓮への思いがことに強く、佐渡流罪中の日蓮に下人を送って便宜を図っている。日蓮が妙一尼に送った書簡をみたい。一二七五(建治元)年五月に身延から宛てたものである。

 

「此御房はいかなる事もありて、いみじくならせ給ふべしと、おぼしつらんに、いうかいなくながし失しかば、いかにやいかにや法華経・十羅刹はとこそをもはれけんに、いままでだにも、ながらえ給ひたりしかば、日蓮がゆりて候し時、いかに悦ばせ給はん」

 

幼少の日蓮をみて、将来の大成を楽しみに思ってきたのに、佐渡に流され無き者となり、法華経も十羅刹もどうして力を出さないのかと嘆いてきたが、いままで生きながらえたので日蓮が赦免された時には、どれほどか喜ばれたことだろう、と綴っている。

 

妙一尼が、日蓮を幼少から見続け、支援してきたことがうかがえる。

 

「故聖霊は法華経に命をすててをはしき。わづかの身命をささえしところを、法華経のゆへにめされしは命をすつるにあらずや」

 

故聖霊とは、妙一尼の夫・祐照のことである。祐照は、一二七一(文永八)年九月に日蓮と門下を襲った弾圧の渦中に、所領を召し上げられたと想定できる。その後、祐照は死亡したのだろう。

 

「さどの国と申し、これと申し、下人一人つけられて候は、いつの世にかわすれ候べき。此恩はかへりてつかへ(仕)たてまつり候べし」

 

佐渡と身延に、妙一尼が一人の下人を送ったことに日蓮は深く感謝する。この書簡から、日蓮と妙一尼に親族関係を想定するのは不自然ではない。しかも、幼少から日蓮の成長を目にしてきた年長の女性で、伯母または姉を想定していいだろう。

 

一二七七(建治三)年に妙一尼が馬で身延の日蓮を訪ねた際、日蓮は「此馬も法華経の道なれば、百二十年御さかへの後、霊山浄土へ乗り給ふべき御馬なり」と記す。「百二十年御さかへ」との一言に、妙一尼の長命を寿ぐ日蓮の思いが表れる。伯母であれば九七~一〇一歳で、度を超えた表現ではない。日昭は一〇三歳まで生きており、長命な家系だったのだろう。一方、日蓮は当時五六歳で、姉とするのは年齢的に無理がある。

 

妙一尼は日蓮の伯母で、工藤祐経の長女としていいと思う。日昭は祐経の館跡に住み、墓所を留めている。

 

江間浩人

 

—次回4月1日公開—

 

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