矢口英佑のナナメ読み #060〈 『台湾野球の文化史—— 日・米・中のはざまで』〉

No.60「台湾野球の文化史 日・米・中のはざまで」

 

矢口英佑〈2022.9.26

 

本書はカリフォルニア理工州立大学人文学院歴史学科教授で、中国・台湾近現代史、東アジアスポーツ・ポップカルチャー史、植民地史を専門とするアンドルー・D・モリスが2011年に刊行した「Colonial Project, National Game: A History of Baseball in Taiwan」が原本である。ただし、訳者・丸山勝の要望に著者が応え、原本と異なる文章の入れ替えを行ない、さらに2011年以降の状況を「日本語版へのあとがき」として、新たに書き加えられている。そのため、正確に言えば原本の増補版の翻訳と言うべきだろう。

 

台湾での野球は、その歴史を紐解けば、英語原題に見えるように日本が台湾を統治したときに始まる。この点から類推できるように、植民地での野球は、最初から日本の野球とは大きく異なる性格を背負って台湾の人びとの生活の中に、そして意識の中に入り込んでいったことがわかる。

 

日本には東京都千代田区の神田神保町の近くにある学士会館敷地内に「日本野球発祥の地」という碑がある。東京大学の前身の東京開成学校があった場所だからで、その学生たちに伝えられたのが始まりとされている。野球を伝えたのは明治初期の1871年(明治4年)に来日したアメリカ人のホーレス・ウィルソンだった。

 

日本に移入された野球は、最初は遊戯として、やがてはスポーツとして高等教育機関の学生を中心に受け入れられていったが、野球移入に政治的な色合いはなかった。

 

ところで、日本が台湾を日本の統治下に置いたのは1895年(明治28年)、日清戦争終結後の下関条約に基づいて、清国が台湾を日本に割譲してからであった。その台湾に日本から野球が伝えられたのは、わずか2年後の1897年頃で、「台北在住の植民地官僚や銀行員、その子弟の気晴らしゲーム」に過ぎなかったのである。しかも「二十年間は、日本人専用の競技にとどまった」のであった。その意味では、日本に野球が移入されたのと同じく移入当初は個人レベルであり、政治的な意味合いが野球に込められていたとは思われない。

 

もっとも著者が見るように、この20年間を野球は「台湾人にとっては実質的な禁制期」と捉えるならば、植民地に顕在化していた支配者と被支配者の構図が〝差別〟という現実となってすでに現れていたことになるのだろう。

 

確かに植民地政策を推進しようとしていた者たちからは野球を単なるスポーツとして見ていなかったことがわかる。本書には「東京に本部を置く拓殖大学(前身は「台灣協会學校」)分校のカリキュラムには、将来の植民地官僚が習得すべき技能として、野球の練習が一九〇七年当時すでに組み込まれていた」との記述が見える。野球が日本から台湾に伝えられてから10年たたずして、すでに日本は台湾を日本化、日本人化するために野球が植民地統治に有効な手段となりうるとみていたのである。

 

本書は台湾の歴史、政治、社会の動きの中で野球がいかなる役割、働きをしたのか(あるいはさせられたのか)、野球に関わった人びとが野球をどのように見ていたのか、彼らはいかに扱われたのかを、社会学、人類学、植民地研究など著者の研究領域をフルに活用して著された台湾プロ野球通史である。

 

日本にも台湾の野球について興味や親近感を持つ人は少なからず存在し、日本のプロ野球で活躍した選手名を覚えている人も多いにちがいない。本書では日本の野球と関わった選手や関係者も少なからず取り上げられているが、特筆すべきなのは、日本のプロ野球史上に輝く数々の記録を残した王貞治が、本書では、1章を割いて取り上げられていることだろう。日本に生まれ、日本で生活し、早稲田実業を卒業後、巨人軍に入団した王は、台湾の野球とは直接的な関係はない。それでも「第四章 王貞治と一九六〇年代台湾の中国人意識のありか」が置かれているのは、王が台湾籍だからである。著者の視点が野球の記録や選手の活躍ぶりではなく、台湾の野球、台湾人の野球への眼差し、文化としての台湾野球などに置かれていることが窺える。

 

その点からいえば、台湾の野球の存在意味を探るという著者の視点にブレはなく、約120年間の歴史を検証しながら台湾野球全史について記述されている。しかし、本書の副題に「日・米・中のはざまで」とあるように、極めて政治的な一面も併せ持っている。その意味で、野球を通して台湾の存立にまで目を及ぼしている点は、極めて興味深く、優れた学術書として異彩を放っている。本書の目次がそれを教えてくれるだろう。

 

  • 日本時代の台湾野球(一八九五〜一九二〇)
  • 台湾野球と人種間の調和(一九三一〜一九四五)
  • 国民党支配の初期―――「野球は中国語にならない」(一九四五〜一九六七)
  • 王貞治と一九六〇年代台湾の中国人意識のありか」
  • チーム台湾―――「中華民国万歳!」(一九六八〜一九六九年のリトルリーグ野球)
  • 「中国人」の野球(一九七〇〜一九八〇年代)
  • 「ホムラン・バッタ」(一九九〇年代以後の台湾プロ野球)
  • 終章 二十一世紀の台湾野球

 

本書で触れられている1895年以降の台湾に目を注いだだけでも、政治的、民族的問題が複雑に錯綜しており、民族感情一つを取ってみても単純ではなく、この地を理解するのはそう簡単ではない。

 

マレー・ポリネシア系の原住民と大陸から移住してきた漢民族が日本の統治が始まった時にも対立構造を孕みながら共存していた。そのため、差別、被差別が厳然と存在する社会(それを助長したのはほかでもない日本だったが)安定的に統治しようとした日本の統治者がルールに従って行われる野球に目をつけたのは頷ける。

 

そして、統治者としての成功例が台南州立嘉義農林学校(「嘉農」、現「国立嘉義大学」)の野球チームが甲子園球場での全国中等学校野球選手権大会に出場し、準優勝したことだろう。このチームは先住民族、漢族台湾人、日本人の混成チームだった。

 

本書の第二章では、この「嘉農」チームを巡って、植民地の野球チームが甲子園で準優勝した意味や内在する問題点について記述されており、日本統治時代の野球の意味を探求する格好の材料として著者が見ていたことがわかる。

 

しかし、日本の敗戦によって1945年以降の台湾は中華民国の領土となり、さらに中国共産党との内戦に敗れた蒋介石率いる国民党政府は首都の南京を台北に移した(中国本土には毛沢東率いる中華人民共和国が成立)。こうして日本人が去った台湾は中国大陸から移ってきた外省人、それ以前から台湾に住んでいた本省人、そして先住民族の構成に変わった。新たな統治者となった蒋介石国民党政府は問答無用の徹底した非植民地化、台湾人差別による非台湾化政策を推進し、「民族覚醒の推進と奴隷根性の根絶」を目指した。そのため、国民党政府の強引な政策は本省人の激しい反発を買い、外省人との対立構造も深まる結果となった。

 

このような中で、日本が台湾に持ち込んだ野球が国民党政府によって、いったんは遠ざけられながら、政治的に有効と見なされるや、再度、復活を果たすことになった。

 

こうして台湾の野球は政治に連動する動きを見せつつ、台湾民衆には日本の野球への親近性が抜き難く残り続け、やがては〝台湾の野球〟へと変貌していくことになったのである。

 

〝台湾の野球〟へと変貌していく過程に触れた本書後半の各章は、具体的事例がそれぞれ取り上げられている(台湾リトルリーグの隆盛と世界に君臨した台湾チーム、日本のプロ野球への進出、台湾プロ野球リーグの発足と凋落等々)だけにわかりやすく、台湾の野球に関心を寄せる向きには、その点だけからでも大いに引き込まれていくのではないだろうか。

 

本書は野球を通して台湾の政治・文化の風土、民衆の精神性、気風といったものに迫った学術書である。だが、読み手によっては、台湾の野球そのものに関心を持つ人は無論のこと、植民地研究、台湾国民党研究、国際政治研究、あるいは台湾民衆研究に着目する人にも大いなる示唆が与えられるにちがいない。

 

本書が台湾の野球を基軸にしながら、多方面から切り込んだ台湾を知るための重厚な一書となっていることはまちがいない。

(やぐち・えいすけ)

 

バックナンバー→矢口英佑のナナメ読み

 

 

関連記事

「二十四の瞳」からのメッセージ

澤宮 優

2400円+税

「西日本新聞」(2023年4月29日付)に書評が掲載されました。

日本の脱獄王

白鳥由栄の生涯 斎藤充功著

2200円+税

「週刊読書人」(2023年4月21日号)に書評が掲載されました。

算数ってなんで勉強するの?

子供の未来を考える小学生の親のための算数バイブル

1800円+税

台湾野球の文化史

日・米・中のはざまで

3,200円+税

ページ上部へ戻る