矢口英佑のナナメ読み #073『椿飛ぶ天地』

No.73『椿飛ぶ天地』

 

                                       矢口英佑

 

本書には書名の「椿飛ぶ天地」と「平壌号」の二編の中編小説が収められている。

 

この二作品、まったく異なる作品世界なのだが、共通項が見て取れる。それは小説であるはずなのにフィクション臭が希薄だということである。

 

「平壌号」はルポルタージュ、「椿飛ぶ天地」はある俳句をめぐる研究ノートではないかと錯覚してしまうような作品世界だからである。

 

「平壌号」は題名からも推測できるように、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への旅行を敢行した主人公の目を通した北朝鮮体験記である。「平壌号」とは中国の北京から平壌に向けて走る国際列車名である。現在、日本との国交が結ばれていない北朝鮮だけに日本政府からは渡航自粛の要請が出ている中での北朝鮮行きである。そのため、出発までの描写は旅行の先行きが順調に進まない,あるいは楽しいものにならないのではないかといった、何か落ち着かない気分を抱かせるものになっている。

 

「平壌号」でも主人公は日常的に俳句を創作する趣味人として描かれているのだが、「椿飛ぶ天地」では、その俳句がこの小説世界の支柱になっている。みずからの生活が俳句と共にあるかのような主人公は、俳句をたしなむ人間の一人として、風流とは何かを自問し続け、その一方で、夏目漱石の「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」の俳句をめぐって、〝実景の写生〟なのかをひたすら追究していくのである。

 

 

作者は「あとがき」で、「平壌号」誕生までを次のように記している。

 

「二〇一九年十一月の北朝鮮への旅は鉄道好きの友人に誘われて実現した」。「見聞きしたことを書いておきたいと思った」。しかし、「三年間ほどオープンにしない」との縛りのもと、ルポではなく小説として書いたものを「紀行風小説として大幅に書き改め、タイトルも鉄道旅行を直接的に示す「平壌号」とした」と。

 

冒頭で「フィクション臭が希薄」と記したが、それは「内容はおおむね事実に沿うが、あくまで一つの物語として脚色している」という作者の言葉によって裏付けられた形になっているのではないだろうか。

 

直接、北朝鮮に入国できないため、北京まで行ってそこで初めて在北京の北朝鮮政府代表部が入国許可証の発行をして、初めて北朝鮮行きが決まる。この異様な入国手順からしてこの旅行の不自由さが窺える。この小説では主人公を「北京—平壌・寝台列車の旅」に誘った親友が入国を拒否されてしまうのである。この国の人物チェックの厳しさと閉鎖性、国体維持が最優先される政治体制がみごとに浮き彫りにされている。

 

写真撮影も案内人の許可を得なければならず、常に行動が監視され、規則と規制で縛られた緊張と警戒心から精神的に自由になれない観光であってみれば、作者が言うように「おおむね事実に沿う」描写しかできなかったにちがいない。しかも三年間は封印しなければならず、その期間が過ぎたとはいえ、やはり無意識の自己規制がかかり、小説として想像を縦横に膨らませる自由さを作者は持つまでには至らなかったと思われる。それにもかかわらず、一つの小説世界として起伏を持たせ、奥行きや幅を創出させるには相当の苦労と工夫が加えられたであろうことは想像に難くない。

 

そして、主人公はこうした国であっても、日々の生活を営む北朝鮮民衆がいることに心を寄せ、そうした人びとを知らずに、いたずらに敵愾心を抱くことへの誤りに気づくのである。帰国後、北朝鮮入国を拒否されながら、わざわざ空港まで出迎えに来てくれた親友から「君はちょっと、おかしくなって北朝鮮から帰国したな」と言われても、なお政治体制が変われば、北朝鮮人民との親交ができるとの思いを強くするのであった。

 

だが、この小説はこう結ばれる。

 

「平壌で投函した郵便物は誰のところにも届かなかった」

 

主人公の思いとは別に国と国との厳しい現実が横たわり、個人の思いなどいともあっさりと打ち砕かれることも教えられた旅だったのである。

 

もう一編の「椿飛ぶ天地」は、夏目漱石の「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」が〝実景の写生〟なのか、それを巡って定年退職した主人公が研究者のように探求を深め、一方で、風流とは何かを追究していく物語である。

 

だが小説以前に、なによりも作者の俳句への造詣が半端でないことに驚かされる。長年の修練を経なければ簡単には身につかない俳句への理解力と実作力だけに、そのような力量を備えていなければ、こうしたスタイルの小説は誕生し得なかったであろう。言い方を換えれば、小説の創作には優れた想像力やインスピレーション、構成力や表現力が求められるが、たとえそれらがすべて揃っていたとしても、誰でもがこのような小説を生み出すことはできなかったということである。その意味では稀有な小説世界を創出しているとも言えるだろう。

 

小説中に時折、置かれる俳句の多くが作者自身の作であり、一定の水準にあることは俳句だけを取り出して詠んでみれば理解できるにちがいない。作者自身も「あとがき」で、

 

「自分としては俳句小説だと思っている」「俳句を趣味にしている人に読んでもらいたい」「「俳句とは何か」という問に愚考を重ねてきたが、その一つのまとめがこの小説であると自分では思っている」

 

と記している。

 

また、作者は「「椿飛ぶ天地」は時間をかけて私の中で熟した物語だ」ともやはり「あとがき」で記している。

 

それにしても、この小説に取り掛かるいわば準備段階で、作者はすでに研究者のように幅広く資料を漁り、読み込み、記録し、確認するという作業に打ち込んでいたにちがいない。その〝研究〟にかけた努力は論文1本どころか、著書1冊を完成させる時間と労力に匹敵するものだったのではないだろうか。こうした研究論文や研究書の巻末には参考文献として多くの論文や書籍の名が列挙されるが、この小説の巻末にそうした参考文献を記載したとしたら夥しい数に上ると思われる。

 

たとえば、作中で重要な役割を担っている主人公の俳句教室での先生である「毛利兎男」は架空の人物だと作者は明かしている。そうだとすればこの先生の俳句に関わる蘊蓄や国文学関係の知識はすべて作者の中で咀嚼されて表出されているものであることは疑う余地がない。これ一つをとっても「時間をかけて」「熟した」小説であることが納得できる。

 

さらにこの小説で太い線によって描かれているのは、夏目漱石と寺田寅彦との師弟関係、俳句を通した二人のつながり、この二人の「風流」論、人間性への肉薄であり、国文学関係者にも大いに参考になるのではないだろうか。

 

それでは夏目漱石の「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」の俳句は〝実景の写生〟であったのか。

 

椿はどのように落下し、最終形は花びらが表か、裏か、あるいは横向きか、主人公は百個の椿の落下のさまを根気強く観察し続ける。椿が落花しながら生きた虻を捕らえられるのか、自分の目で確かめようとする主人公に「気味が悪い行動」「近隣に迷惑」と妻からは冷ややかな非難の言葉を投げつけられるのである。「風流を解する者にしか、この実験の意味は理解できまい」とうそぶく主人公には理解されない者の悲哀とおかし味が漂っている。

 

だが、椿の落花に着目したのは主人公だけではなかった。寺田寅彦にも「空気中を落花する特殊な形の物体―椿の花―の運動について」という英文の論文があったのである。

 

こうして主人公は、椿を題材とした漱石、寅彦二人の俳句、風流論、寅彦の椿の落花に関する論文から「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」は〝実景の写生〟と結論づけていくのである。

 

この小説は、定年後の一人の男の俳句を巡る充実した生き方を描いた小説と見ることも、俳句論、風流論、漱石・寅彦論として見ることも可能だろう。

 

蛇足ながら、漱石の「落ちざまに…」は〝実景の写生〟と主人公は結論づけているが、そこでは〝風流〟に関わっての、なかなか含蓄ある解釈がされている。それゆえ是非、本書をじっくりお読みいただき、ご自分でご判断いただき、〝風流〟への接近を試みられてはいかがだろうか。

 

(やぐち・えいすけ)

 

 

 

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