『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.011

Ⅰ 日蓮の出自について

 

安房の日蓮

 

日蓮が伊東祐時の子だとすると、なぜ日蓮は安房で養育されたのか。注目したいのが、工藤左近尉である。

 

工藤氏は、一二六四(文永元)年十一月十一日、安房で日蓮を襲った東条景信の兵と戦い、鏡忍房日暁とともに絶命したとされる。墓は屋敷跡の日澄寺に残る。ここも背後に山を持つ武家独特のもので、裏山もふくめ工藤氏の天津城址と伝わる。東条御厨内にあった白浜(天津)御厨の管理は工藤氏が行っていたという。工藤邸の至近には、頼朝が建てた神明神社があり、ここに御厨の役所もあった。神明神社も工藤邸跡も海岸にほど近く、この地が港湾の要所だったことがうかがえる。

 

一一九二(建久三)年の神領注文にみえる東海道諸国の御厨は、その大部分が海上交通を利用して供祭物を貢進する御厨である。東条御厨もその一つだろう。そして白浜(天津)御厨は、実は港湾を管理し、鎌倉の六浦・飯島と同様、その関税徴取権を付与されていたのではないか。海運・水軍に長けた工藤氏がこの御厨を管理したのは理解できる。

 

日蓮は、安房の東条郷の出身を誇っている。理由は、東条御厨にある。「安房の国長狭郡之内東条の郷、今は郡也。天照太神の御くりや(厨)、右大将家の立て始め給ひし日本第二のみくりや、今は日本第一なり」、「安房の国東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし」と述べている。

 

源頼朝が、平氏打倒が叶えば御厨を寄進すると天照大神に起請し、その心が通じたから頼朝は将軍となった、と日蓮は語る。そして、頼朝が東条の郡を天照大神の御栖と定めたので、天照大神は東条にいるのだ、として「日蓮は一閻浮提の内、日本国安房の国東条の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり」と誇っている。

 

長狭郡は、もとは長狭氏が治めていたが、これを頼朝が滅ぼすと、三浦義澄に与えたと思われる。さらに一二四七(宝治元)年六月、宝治合戦によって三浦氏が滅び、その所領を北条氏が獲得する。それを極楽寺重時が拝領したようで、重時の在地家人と思われる東条氏が急成長した。一方、名越朝時も長狭郡に知行地があり、一二四五(寛元三)年の没後は朝時の妻が継承したようだ。その地を一二五三(建長五)年に東条氏が侵犯した際、日蓮は朝時の妻に加担して訴訟指揮を執る。名越氏の衰えを好機とみて、重時を後ろ盾に東条氏が動いたのだろう。名越氏は東条御厨を知行していた可能性もある。

 

日蓮は、伊東から工藤氏に「四恩鈔」を送る。宛名は工藤左近尉。名前には吉隆と光隆の二説ある。ただし両説とも、父は工藤行光だ。厨川(奥州)工藤氏の系図(表1)に工藤行光・吉隆の親子がみえる。一一八〇(治承四)年八月、父の行光は、祖父・景光と石橋山の戦で頼朝の援軍に駆け付け、十二月に頼朝が鎌倉の新邸に入ると、御弓始めで射手六人の一人に指名される。一一八九(文治五)年の奥州合戦でも行光は奇襲攻撃で活躍し、頼朝から盛岡の地を拝領する。破格の恩賞だ。厚遇の理由は弓馬の技量に加え、工藤氏率いる伊豆水軍の機動力と経済力、奥州にも通じた情報力と統治力を、頼朝が評価したとされる。『奥南落穂集』には後に伊東祐時が奥州に下向し、二男は葛巻工藤氏の祖になったとの記述がある。

 

同時代に工藤行光がもう一人いる。工藤茂光の三男、摂津守民部大夫の行光だ。兄に宗茂、弟に親光がいる。行光の父・茂光は狩野工藤介。茂光は一一八〇(治承四)年、山木兼隆奇襲の作戦会議に参加した頼朝の手勢で、石橋山の戦で自害する。五男親光も、奥州合戦の奇襲攻撃で絶命した。

 

系図(表1)には行光の嫡男に光時の名があるが、光時以降はつながらず、弟である二郎為佐に移る。実朝は、後に御厩別当になる近臣の狩野為佐(為光)を通じて、名越朝時の病快方を祝う。為佐は実朝・頼経の「家の子」といえるし、名越氏とも近かった。一二四六(寛元四)年五月、頼経を担いで江間(名越)光時が時頼に挑もうとした際、為佐も光時に連座して評定衆を罷免されている。

 

 

先の光隆説は、工藤光時との混同を疑っていいだろう。ただ、いずれの工藤氏も頼朝と非常に近い一家だった。今は、その点だけ確認する。この場合、工藤氏が日蓮の乳夫だった可能性が排除できなくなる。

 

頼朝の乳母だった比企尼は、経済的な援助だけでなく、三人の娘も頼朝の周囲を比企の血縁で包囲するために嫁がせる。戦でも一族あげて頼朝に尽くす最大の庇護者だった。頼朝は、嫡子の頼家以下の妻に比企氏を選び、源氏一門の妻を出す家として比企氏を選択した。工藤氏の殉死は、そのような乳夫の在り方を想起させる。年齢も日蓮と親子ほど離れ、伊東祐時は血縁に加え、頼朝との近さから日蓮の乳夫に工藤氏を選んで不思議はない。港湾を管理した工藤氏なら、「長狭郡東条郷片海の海人が子也」という日蓮の自称とも符合する。

 

ここで先の東条御厨の言及に注目すると、この御厨が今は日本第一であると宣言した後に、「此郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年」と述べる。清澄寺は円仁が開いた名刹である。日蓮は幼少から学問の道で将来を期待されていた。であれば、日蓮を東条の地に預けたのは清澄寺への入山が予定されていたからではないか。母の千葉氏も工藤氏も、この地を知行する名越氏と近く、我が子の安全を考えた結果だろう。

 

光隆との混同を疑った光時の父・行光は、日蓮の祖父・祐経と同時期に後白河院の武者所に出仕していたと思われる。兄・宗茂も、日蓮の父・祐時とともに、一二二一(承久三)年の承久の乱で東海道軍に参陣している(『承久記』同年五月二十二日の記事)。日蓮と工藤氏の重縁がうかがえる。

 

ところで、なぜ工藤氏が安房に住み、天津で御厨を管理したのか。極楽寺重時の在地家人である東条氏と対立したことから、ここに知行地を持つ名越朝時の在地家人だったとも考えられるが、不明である。後考を期したい。

 

 

—次回9月1日公開—

 

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