矢口英祐のナナメ読み #093 『小泉郁子教育論集 第四巻 戦時下北京からの発信 Ⅰ』

No.93『小泉郁子教育論集 第四巻 戦時下北京からの発信 Ⅰ』

 矢口英佑

 

 

『小泉郁子教育論集』全五巻は桜美林大学出版会より2023年3月に第一巻「ジェンダーフリー教育」が刊行され、現在、第四巻(2024年11月刊)まで刊行されている(発売は論創社)。

 

1892年に島根県に生まれた小泉郁子は1915年に東京女子高等師範学校を卒業後、教員となったが、1922年に東京女子高等師範学校研究科に入学、同年秋にアメリカへ留学、1930年に38歳で帰国し、約8年間の留学生活を終えている。

 

帰国後は女性解放に向けて、女性への差別、不平等、さらには女性蔑視といった風潮が濃厚だった日本社会の変革をめざす論陣を張っていった。本論集の第一巻の巻頭に1931年に発表された「男女共学論」が置かれているのは、小泉のアメリカでの学習、研究の大きな成果であったからであろう。小泉郁子の女性解放に向けた思想の根幹と、その後の活動の原点を知るには最適の論文と言えるもので、編者たちの編集力の確かさをも教えている。

 

現在の日本では「男女共学」は広く受けいれられ、ごく当たり前になっているが、1930年代初頭に怯むことなくこうした主張を公にすることには、それなりの覚悟と勇気が必要だったはずである。軍国主義的空気が膨張し始めてきていた時期だけに、国家権力との対峙が生じることを予測しないはずはなかったからである。

 

その意味では第三巻の「女性は動く」は小泉郁子の三冊目の著書『女性は動く』(1935年5月刊)を中心に編集されており、これも郁子を代表する論著であるのは言うまでもない。それにしても、この書名に込められた日本社会へのメッセージは、これまた強烈にして果敢で、極めて刺激的、大胆であったと言えるだろう。それというのも「女性は動く」の冒頭に置かれた「著者のことば」で郁子は、

 

「世界は一つにならなければならぬ。世界の女性は女性の名に於て一つにならなければならぬ。一国家、一社会を超越し、一人種、一民族を超越して全世界が人類の名に於て一つとなる時、初めて各国家が、各社会が、各人種が、各民族が救われるのである。その如く、女性の問題の完全なる解決は、全世界の女性が一つとなることに於てのみ達成しうるのだと私は信じている。この信仰が私を駆ってこの大胆なる挙を敢えて為さしむるに到ったのである」

 

と記しているからである。郁子みずから「大胆な挙」と記しているように、先導者としての自覚と意気込みが強く感じられる。

 

 

ところが、ここで取り上げる第四巻は「戦時下北京からの発信Ⅰ」である。8年に及ぶアメリカ留学によって英語を自在に操り、女性解放に向けた論陣を精力的に展開していた郁子がなぜ中国の北京なのか。素朴な疑問を抱く向きもあるかもしれない。

 

しかも、郁子が北京に渡った当時の中国は、本巻の副題にもあるように「戦時下」に置かれていたのである。1932年に日本は愛新覚羅溥儀を皇帝に仕立て、傀儡国家・満州国を成立させていた。また中国国内でも日本は軍靴の音を次第に大きくさせていっていた。さらには中国国民党と中国共産党が対立を深め、中国国内はいくつかの軍事勢力による複雑な戦時下に置かれていたのである。

 

郁子が北京に向かった謎解きは本巻の冒頭の「長江丸より」が教えてくれる。戦時下という不穏な政治情勢にあり、日本への抵抗感、日本人に対する反発心を抱く中国人が多かった中国に郁子は1935年7月4日、神戸から天津行きの船上の人となっている。

 

 「私は今自分の為した所謂決心というものをと眺めて、まあ私は何という風がわりな人間かと自分らあきれている」

 

この「風がわりな」「決心」をさせたのは北京の朝陽門外で「崇貞学園」という女子を対象とする学校を運営していた清水安三という一人の牧師であった。1919年秋、中国北部一帯は大旱魃に襲われ、欧米のキリスト教団体が救援活動に乗り出し、清水安三も朝陽門外に急設された救護施設での活動を始めた。旱魃終息後、その朝陽門外一帯は貧困層の人びとが多く暮らす地域であったため、10代の少女の身売りも珍しくなく、安三は1921年に彼女たちを集めて識字教育と自立のための技芸を習得させる「崇貞工読学校」を創設していて、それが崇貞学園の前身であった。

 

郁子との出会いは安三が1924年から3年間、アメリカのオハイオ州にあるオベリン大学に留学した時だった。もっともその頃は同じ日本からの留学生として知っていた程度で親しいつき合いはまったくなかったようである。このあたりの二人の関係と郁子の安三への思い、安三観は本巻所収の「清水安三論」に詳しく、清水安三の人間像が生き生きと活写されていて、一編の物語とも言えそうな語り口になっている。

三人の子どもを抱えた男の後妻に中国へ渡る郁子には、彼女の家族を含めて周囲の者たちから反対する声が多くあり、女性解放運動家としての郁子の力が削がれることを危惧する人びとも少なくなかったのである。そうした声が数多くあったことを郁子は承知していた。そのためであろう「四十三年間の独身生活を清算して初めて人妻となる私の心境」(本巻所収)には、みずからが結婚を決意した心境の変化と、これからの生活への決意とが実に率直に語られていて驚かされる。

 

また中国に渡った郁子が中国の女子教育に安三を助けて、いかに強い信念で力を注いでいたのかは本巻に収録されている「崇貞学園に於ける労作教育の実際と其の効果」や何本かの「崇貞学園だより」、そのほか教育現場での郁子の奮闘と苦労談などから十二分に感得できる。

 

さらに本巻の大きな特色として見逃してならないのは、「戦時下」の中国をリアルタイムで日本へ伝えていたことである。その一つが、一人のジャーナリストのように当時の中国の政治、文化をリードしていた人物たちとの会見の様子とその記録が収められていることである。これらは1930年代の政治、歴史、文化の状況を知る貴重な資料として、大きな価値を持っている。本巻に収録されている項目を拾い出してみれば、その点は理解できるにちがいない。「殷汝耕夫人と語る」「胡適氏は斯く語る」「胡適博士に聴く」「蒋介石夫人宋美齢女子訪問記」「南京に蒋介石夫人宋美齢女史を訪う」「西安事変後初めて蒋介石夫人に会う」「蒋介石夫妻の宗教生活」「蒋介石の教育運動」「宋美齢女史との会見を回顧して——南京の落城と蒋氏の没落」等々である。

 

もう一つは、1937年7月7日に起きた盧溝橋事件(北京郊外の盧溝橋付近で起きた日本軍と中国軍の衝突はやがて日中戦争に突入するきっかけとなった)に関する一連の身辺報告である。これもまた日中の1930年代史を研究する者にはリアルタイムの貴重な証言として、今となっては非常に得難い資料となっている。何よりも北京で暮らす一人の生活人としての目、中国を侵略している国の人間としての目、そして女性解放を主張する実践者、教育者としての目などが郁子の中で渦巻きながら記された、〝今ここで起きている事〟の報告には緊張した空気が痛いほど感じられる。

 

この盧溝橋事件を郁子は〝異常事態〟として敏感に認識し、北京で何が起きているのかを伝えようと旧知の『婦女新聞』社にみずから記した報告文を送ったのだった。「切迫せる空気の中に執筆、直ちに特別郵便で急送せられたものであります。他紙には見られぬ此の情報を、逸早く愛読者皆様の机上にお送りすることが出来ましたことを、清水女史に厚く感謝致します」と『婦女新聞』社記者の付記が、郁子の盧溝橋事件に関する最初の報告文となった「盧溝橋事件の一昼夜」に見える。

 

以降「戒厳令下の北平——無気味な空気国国に深まる(第二速報)」「平津線激戦直前の南下(第三報)」「思いは駆する北平の空——帰りなん、いざ!(第四報)」と続く。そのほか本巻にはこの盧溝橋事件から日中戦争突入までの情勢を郁子身辺の動静を通して生々しく伝える報告文も収録されており、盧溝橋事件関連だけで本巻の六分の一に迫る頁数を占めている。

 

このように本巻は、一〜三巻までの小泉郁子の女性解放に向けた言説の人、実践行動の人から清水安三を支えて崇貞学園を運営し、中国の貧しい女子を育てることに専心する教育の人に転換してゆく姿を知ることができる。そして、もう一点は日中戦争に突入していく中国の現状に対する数少ない生活人としての目から見た貴重な証言者としての姿である。

 

それにしても、郁子は日本と中国が本格的な戦争に突入してゆく当時にあって、さぞかし心を痛めていたであろうことは想像するに余りある。

 

「ああ戦は恐ろしい。戦は呪わしい。戦はしたくない。しかし一度戦ったら必ず勝たねばならぬ、とは誰もが希う。然し、たとえ勝っても戦の犠牲は免れることは出来ぬ。(中略)私は今もう一度人間の、女性の、根本使命に振り帰りつつ「我等何を為すべきか」を考えさせられています」(「動乱の巷を避けて——第二信」本巻所収)

 

中国での女子教育に専心してきた郁子が日本の敗戦によって、崇貞学園を含むあらゆる資産を手放し、身一つで安三と二人で日本に戻らざるを得なくなるのは、この言葉から8年後のことであった。

 

(やぐち・えいすけ)

 

 

 

 

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