㊸恒文社『全訳小泉八雲作品集』と『夢想』
小田光雄
平井呈一が戦前にラフカディオ・ハーン/小泉八雲の『怪談』や『骨董』の訳者で、戦後も『心』や『東の国から』も翻訳し、それらがいずれも岩波文庫に収録されていたことは知っていた。それゆえに1964年から67年にかけて、『全訳小泉八雲作品集』全12巻に取り組み、67年度日本翻訳文化賞を受賞したことも承知していたけれど、どうしてそれが恒文社から刊行されたのかはずっと不明のままだった。
その事実が明らかになったのは前回の岡松和夫の『断弦』が刊行されたことによってである。前回もふれておいたように、『断弦』の「序」は語り手の秋川が母校の大学図書館で、妻の伯父の白井=平井と出会うシーンから始まっている。白井はハーンの翻訳の資料を見るために「出版社の山本」と一緒に、「よく名の知られている英文学者」の紹介で、図書館を訪ねていたのである。「出版社の山本」とは、『全訳小泉八雲作品集』の『仏領西インドの二年間』下の平井の解説「八雲の小説」で名前が挙げられている「恒文社編集部小林英三郎」ではないかと思われるが、「よく名の知られている英文学者」が誰なのかわからない。しかしやはり「序」の最後のところに出てくる、白井が二冊の大学ノートを託した「老英文学者」とは別人であろう。
その大学ノートは白井の昭和初年から第二次世界大戦までの「とびとびの年月の手記」、すなわち『断弦』に他ならないので、『全訳小泉八雲作品集』のことは記述されていない。だがそれが終わり、再び秋川の語りに戻る「跋」において、具体的に言及されている。
白井に全十二巻の作品集を依頼したのは恒文社の社主である。社主は小千谷中学の卒業生で中学時代からハーンに惹かれていた。戦争中、白井は小千谷に疎開して小千谷中学の教師となる。白井は既に岩波文庫でハーンの翻訳を四冊も出していたのだし、社主がハーン作品集全巻の訳者として白井を選んだ筋道は「母校の縁」ということらしかった。秋川は社主にも会ってみた。(中略)ハーンの十二巻の作品集は出版されて三十年近く経つのに今も在庫が確保されているそうだ。
『日本百年出版史年表』によれば、ベースボールマガジン社の姉妹社として、創業者の池田恒雄によって恒文社が設立されるのは1962年である。そのことから考えると、平井の『全訳小泉八雲作品集』は「ハーンに惹かれていた」池田が「母校の縁」で目論んだ恒文社の創業企画と見なしていいのかもしれない。
だが平井にとってのハーンへの注視はやはり自らいうところの小泉八雲の「怪異小説」にあり、それは戦前の『怪談』や『骨董』の翻訳にも明らかで、『全訳小泉八雲作品集』にも『怪談・骨董他』、中国の伝説奇話に基づく『中国怪談集他』、エジプトやインドなどの古書や経典からの妖異なファンタジー『飛花落葉集他』にも顕著であろう。
しかしここではそれらではなく、『日本雑記他』に収録された『夢想』にふれてみたい。これは「人はみな、時の流れに棹さして、/目ざめしおりは遠白く/目閉ずるのちに達すべき/かの彼岸をば、むなしくも/想い夢みるものこそ。」というマシュー・アーノルドの詩がエピグラフに置かれ、「夜光虫」「人ごみの神秘」「ゴシックの恐怖」「飛行」「夢魔の感触」「夢の本から」「一対の目のなかに」の七編が収録されている。この『夢想』に関して、平井も同巻の解説「八雲と再話文学」で言及していないし、管見の限り、論稿も見ていないが、私見によれば、八雲の幻視者としての本質が見事に表出していると思われる。「人ごみの神秘」はまさにボードレールだが、それよりも私は半世紀近く前に読んでいたネルヴァルのことを想起した。
ネルヴァルを知ったのはミシェル・レリスの夢日記『夜なき夜、昼なき昼』(細田直孝訳、現代思潮社、1970年)においてで、そのエピグラフに「夢は第二の人生だ」という言葉が置かれていたからだ。それに触発され、続けてネルヴァルの『幻視者たち』(入沢康夫訳、同前、1968年)を読み、彼も含んだ幻視者たちの系譜を学んだ。ネルヴァルはゴーチェの盟友であったことからすれば、ゴーチェの影響を受けていたハーンもネルヴァルを読んでいたにちがいないし、それにネルヴァルの『東方への旅』(篠田知和基訳)も『世界幻視文学大系』に収録されているのである。
『夢想』の全編が魅惑的だが、ここでは「夢想の感触」を取り上げておこう。ハーンは書いている。
恐怖というものは、すべて経験から生まれる。—個人的な経験、民族的な経験。—現在の生活経験、もしくは、とうの昔に忘れ去られた過去の生活経験。恐怖はそこから生まれる。たとえ未知の恐怖でも、それ以外に原拠はありえないはずだ。してみると、幽霊の恐怖というものは、過去に受けた苦痛から生まれるに相違ない。
おそらく、幽霊の恐怖の起りは、幽霊を信じることとひとしく、やはり夢からはじまったものなのだろう。
これは『怪談』などの物語にも通底していよう。
−−−(第44回、2019年9月15日予定)−−−
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