Ⅰ 日蓮の出自について
光日尼
日蓮が幼少時代を回顧して、ともに懐かしむ女性に光日尼がいる。そして「父母の墓」に何度も言及する。これは他の門下には見られない態度である。
次はいずれも一二七六(建治二)年三月に身延から送った「光日房御書」の抜粋である。佐渡流罪中、いかに生国の安房を恋しく思い、父母の墓に詣でることを大きな励みに過ごしてきたか、切々と訴えている。
「(佐渡から鎌倉へ)かへらずば又父母のはか(墓)をみる身となりがたし」、「日にも月にも海もわたり、山をもこえて父母のはか(墓)をもみ、師匠のありやう(有様)をもとひをとづれ(音信)ざりけんとなげかしく」、「父母のはか(墓)をもみるへんもありなんと心づよくをおもひて」
さらには、赦免で鎌倉に戻りながら、どうして安房に帰らなかったのか、その無念を語る際にも父母の墓に言及する。
「本国にいたりて今一度、父母のはか(墓)をもみんとをもへども、にしき(錦)をきて故郷へはかへれといふ事は内外のをきてなり。させる面目もなくして本国へいたりなば不孝の者にてやあらんずらん。これほどのかた(難)かりし事だにもやぶれて、かまくらへかへり入る身なれば、又にしきをきるへんもやあらんずらん。其時、父母のはか(墓)をもみよかしと、ふかくをもうゆへにいまに生国へはいたらねども、さすがこひしくて」
日蓮が故郷とともに、いかに父母を大切に思ってきたかを語り、自身の行動はすべてその思いを基底にして選択・苦悩してきた、と述べている。しかし、日蓮が繰り返す「父母の墓」は、日蓮の実父母のことだろうか。日蓮の父母に対する思いを、なぜ光日尼にここまで強調する必要があったのだろう。
光日尼は、一昨年に亡くなった子の弥四郎が人を殺め、その後生を気に病んで日蓮に相談した。これはその返書である。日蓮の結論は、弥四郎は法華経の信者であり心配いらないが、恐れるべきは念仏者・律師・真言師という法華経の敵であり、騙されるから注意しなさいということである。結論は最後に短く書かれ、前半は先にみた父母への思いで綴り、後半は弥四郎の思い出、光日尼からの手紙の読み返しに費している。
日蓮は、一昨年の弥四郎の死を光日尼の手紙で知る。つまり、光日尼との交流は疎遠になっていた。そして、他宗の僧が身近にいて、光日尼の信仰に強い影響を与えている。この前提で書簡をみると、日蓮の最大の苦心が光日尼の心をどうつかむかにあると分かる。前半は、そのためのものだ。そうすると日蓮が繰り返す「父母の墓」は、光日尼の父母の墓と考える方が自然である。ではなぜ日蓮が光日尼の父母を深く思うのか、その表現が光日尼に対して不自然にならないのか。
この疑問を解消できるのは、光日尼を日蓮の乳夫に想定した工藤氏の娘とする場合である。「父母の墓」は日蓮の乳夫の墓であり、光日尼にとっては実父母の墓である。であれば光日尼が、父母からの伝聞か、本人の体験かは不明としても、「予はかつしろしめされて候がごとく、幼少の時より学文に心をかけし」と日蓮が記すほど、幼少の日蓮をよく知っていたことも理解できる。
書簡は、弟子の三位房と佐渡公が光日尼に届けている。二人も光日尼の縁者にちがいない。佐渡公は後の日向である。日蓮の兄弟に九州日向へ下向した祐景がいる。この血筋には日蓮の信者と思われる法名を持つ者が多数おり、日向の法類と推認される。日蓮が親族の日向を使者に選んだのだろう。
富木常忍の妻に与えた書簡に、次の一説がある。「日蓮悲母をいのりて候ひしかば、現身に病をいやすのみならず、四箇年の寿命をのべたり」。先に触れた伊東祐光以外で、日蓮が祈って命を長らえたとする唯一のものである。このことは弟子・門下にもよく知られた話だったようで、日朗が後に「聖人の御乳母のひととせ(一年)御所労御大事にならせ給いて候て、やがて死なせ給いて候し時、此経文をあそばし候て、浄水をもつてまいらせさせ給いて候しかば、時をかへずいきかへらせ給いて候」と振り返っている。日蓮がいう「悲母」は「乳母」としていいだろう。
また、光日尼への書簡の特徴に、日蓮自身のこれまでの来し方や幕府の対応を、かなり踏み込んで綴っていることが挙げられる。今回に続いて「種種御振舞御書」が送られ、「破良観等御書」「光日上人御返事」もある。いずれも日蓮がたどった歩みと思索の経過を、絵物語のように活写する。二人の歴史の空白を埋めて光日尼が再び日蓮と同伴できるよう、手引きするような書簡類だ。同時に、幕政の逸脱に対する批判も多い。光日尼が工藤氏の血筋であれば幕政に強い関心を持つのは当然で、日蓮はそれに応えたのだろう。光日尼の名も父・光隆(時)の偏諱だった可能性がある。
—次回10月1日公開—
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