『日蓮誕生——いま甦る実像と闘争』No.025

Ⅲ 日蓮と政治

 

日蓮仏法の政治性

 

政権の公認と身延入山

日朗と比企能本は、佐渡赦免後の日蓮を迎えようと比企が谷に妙本寺を創建していた。比企が谷は頼朝以来、将軍家ゆかりの地である。得宗家の創建ではなかったにせよ、この由緒ある地に、しかも比企氏の開基によって寺の造営が認められたことは、幕府が日蓮を公認したに等しい。後に日蓮は、安達泰盛の働きかけによって、時期からみて異国調伏と思われる祈祷の申し出を受けている。幕府による調伏祈祷は社寺に対する所領の寄進と不可分の関係にあり、日蓮に対しても当然、所領寄進の申し出があったと考えられる。名越家に近しい存在として政治的には野党側に位置した教団が、泰盛の理解を得たことで与党側に軸足を移したといえる。

 

にもかかわらず日蓮が鎌倉からの辞去を選択したのは、なぜだったのか。鎌倉からの放逐は政治的には死を意味するもので、日蓮も弟子の日興も身延入山を「隠居」と記し、日蓮自身は自覚的に「遁世」としての振る舞いを貫いた。

 

二度の流罪によって新たな覚悟を得た日蓮は、すでに過去とは一線を画す宗教上の大転換を遂げており、この時点で日蓮が政権に求めるのは、先に見た日本第一の僧・国師としての処遇以外にありえない。特に、日蓮を国師とした祈祷であろう。しかし幕府は日蓮の諫言を容れず、密教僧による祈祷を命じ続けたが、一方で予言的中による日蓮教団の教勢拡大は、蒙古襲来に備えて挙国一致をはかる政権にとって大きな脅威であり、無視できるものではなかった。そうしたなか、政権が日蓮に祈祷を申し付けて特段の配慮を示したのは、日蓮に政治的譲歩を促し、妥協による政治決着をはかったからにちがいない。政権側にとってこれが最大の譲歩案だったと思われる。

 

ところが日蓮を密教僧と同列に扱う処遇は、宗教上、日蓮が許容できるものではなかった。この点で、政権との妥協の余地がない中、これ以上鎌倉に留まれば、新たな抗争を生むことは明らかであった。政権の中枢に日蓮を公認し、一定の評価を下す者がいる以上、その関係を維持しつつ、教説を曲げずに政治的な折り合いをつけるには、鎌倉からの辞去が最良の選択だったといえる。以降、日蓮は幕府への一切の諌暁を止め、再度の蒙古襲来については門弟が話題にすることさえ禁じた。こうして政治との関係を断って安全を確保した日蓮は、次なる時機の到来を待っていたに違いない。

 

江間浩人

 

—次回11月1日公開—

 

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