本を読む #067〈アナイス・ニン『近親相姦の家』と太陽社〉

(68) アナイス・ニン『近親相姦の家』と太陽社

 

小田光雄

 

 

牧神社の菅原孝雄は前回の『イマージュ』の他に、1969年に太陽社からアナイス・ニンの小説『近親相姦の家』を翻訳刊行している。ニンの翻訳は66年の『愛の家のスパイ』(中田耕治訳、「人間の文学」18,河出書房新社)に続いて2冊目である。

 

アナイス・ニンの名前はヘンリー・ミラーの『暗い春』(吉田健一訳、『世界文学全集』6所収、集英社)における献辞、『北回帰線』(大久保康雄訳、新潮社)の序文で知られていたが、60年代末になって、ようやく翻訳されたことになる。彼女は『愛の家のスパイ』の翻訳記念として、河出書房新社からの招待を受け、66年に来日している。

 

菅原と太陽社の関係は牧神社以前の思潮社時代に始まっていたと推測できるけれど、彼の最初の翻訳として、ニンの『近親相姦の家』が選ばれた理由は不明である。ただ『愛の家のスパイ』の翻訳出版と彼女の初めての来日がきっかけとなったことは間違いないだろうし、それもあって、「『近親相姦の家』と『ステラ』に寄せて」という序文を書くことになったのであろう。

 

これらの2作を収録した『近親相姦の家』は合わせて171ページだが、ヴァル・テルヴァーグのフォトモンタージュ、イアン・ヒューゴーの版画と相俟って、菅原が「一種奇怪な散文作品」と呼んでいるように、1930年代のパリで見た夢の記録にして、その初期作品に他ならない。

 

そのようなニンの作品に加えて、さらに「一種奇怪な」のは、菅原が57ページに及ぶ「近親相姦論」を付していることである。それは彼女が踏みこんでいった未開の領域が近親相姦の世界であったことを浮かび上がらせようとしている。そのために菅原は自らの少年期における九州の「山塊に囲まれた聚落」、「経済的な自給自足」の共同体の底辺での近親相姦の事実を挙げようとする。斜視と跛足の子供は歪んだ口に唾液をしたたらせ、もう一人の女は夏の往還を一糸まとわぬ裸身で走り抜けていった。

 

 ひとつは奇形の醜悪さということであり、ひとつは狂気の美しさということであった、と今でも覚えている。(中略)これだけの嫌悪さと美しさの姿をして現われる近親相姦とは何なのか。(中略)しかしそのような問いかけは、太陽が早い時間に姿を消し、山や谷という自然の襞が暗い翳りを宿し、ついには谷間の聚落をすっぽり呑み込んでしまう闇の中に果てしなく漂うだけである。

 

ここに象徴的に見られるように、菅原は近親相姦の語源にタブーを見て、民族学や文化人類学、文学や精神分析学にふれ、ニンの言語としての近親相姦にも及んでいく。それは当時としては傑出した近親相姦とアナイス・ニン論だったと思われるが、これ以上は踏み込まない。さらにもうひとつ言及したいのは太陽社に関してであるからだ。

 

かつて柄谷行人と中上健次が対談の中で、フォークナーに関連して蟻二郎と太陽社にふれていたことがあった。その頃、私はフォークナーフリークだったので、蟻の『フォークナーの小説群』(南雲堂、1966年)も読んでいて、奥付の著者紹介で彼の本名が三宅二郎、明治大学講師、第十六次『新思潮』同人、近刊が『アメリカのニグロ作家たち』(太陽社)であることを知っていた。またその「まえがき」から、蟻がフォークナー研究者の大橋健三郎、中村勝哉とともに昌文社を設立した小野二郎の近傍にいたことも承知していた。

 

またその一方で、1960年代後半に出された太陽社のジャック・カポー『喪われた大草原』(寺門泰彦、平野幸仁、金敷力訳)、ラッセル・レーナー『ロリータ・コンプレックス』(飯田隆昭訳)、トム・ウルフ『クール・クールLSD 交感テスト』(同前)などを入手し、太陽社が主としてアメリカ文学を中心とする翻訳出版社だと認識していたのである。それに『喪われた大草原』の訳者の平野は『フォークナーの小説群』で、大橋や小野と並んで、「親友」として謝辞が挙がっていた。だがその奥付にも発行所太陽社と記されているだけで、発行者名の記載はなかった

 

ところがどうしてなのか、装幀者だけは猟二郎といずれも明記され、彼が蟻二郎=三宅二郎だと思われた。とすれば、彼はアメリカ文学者にして、著者・出版者・装幀家を兼ね、太陽社の出版事業に携わってきたことになるけれど、管見の限り、蟻と太陽社に関する言及をどこにも見つけられず、詳細は不明のままだ。おそらく1960年代後半に立ち上げられ、70年代前半までは存続していたのではないだろうか。

 

太陽社の全出版書目は把握していないが、ボールドウィン『出会いの前夜』(武藤脩二、北山克彦訳)、マードック『砂の城』(栗原行雄訳)、ベロー『宙ぶらりんの男』(井内雄四郎訳)などの小説の翻訳は重版記載があることから、それなりに読者をつかんでいたはずだ。また先の『ロリータ・コンプレックス』にしても、ナボコフの『ロリータ』にちなんで、「ロリコン」というタームを定着させるきっかけになったと思われる。またこれは未見だが、『近親相姦の家』の巻末広告に、チョムスキーの『知識人の責任』が見え、言語学者ではないチョムスキーのいち早い翻訳だったことを知らされる。

 

ここで『近親相姦の家』と菅原に戻ると、『ヘンリー&ジェーン』(杉崎和子訳、角川書店)、『アナイス・ニンの日記』(原麗衣訳、ちくま文庫)に続いて、2017年に鈴木宏の水声社から、無削除版、矢口裕子編訳『アナイス・ニンの日記』が刊行され、そこには『近親相姦の家』の成立事情や66年の訪日のことも記されていたのである。また菅原は近年亡くなったと伝えられている。

 

 

 

—(第69回、2021年10月15日予定)—

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