矢口英佑のナナメ読み #080 『あの公園のベンチには、なぜ仕切りがあるのか?』

No.80「あの公園のベンチには、なぜ仕切りがあるのか?」

 

                                         矢口英佑

 

本書は心理学的視点から、あるいは造形学的視点から、さらにはベンチそのものについて論じられているわけではない。副題「知らぬ間に忍び寄る排除と差別の構造」とあるように日本の社会に存在するさまざまな差別や排除について、11人の執筆者がそれぞれに関わる研究領域や専門分野から差別と排除の問題を取り上げている。

 

だが、それらのいずれにも明瞭な解決策が導き出されているわけではない。当然だろう。目の覚めるような解決策を示すことができるなら、この地球上から差別や排除はなくなってきているはずだからである。それにしても厄介な問題である。

 

差別や排除といった現象はどこにでも起こり得る。人間も動物であり、他者を排除しようとする生物学的習性を持っていることは否定できない。たとえば電車の座席に誰も座っていない場合、その座席の真ん中に座る人はほとんどいない。座席の端に腰掛ける人が圧倒的に多い。そこには人間の心奥に潜む無意識の他者の排除が、他者の忌避がある。そのため次に座る者もほぼ間違いなくもう片方の端に座る。

 

しかしその一方で、人間は群れようともする。それぞれの意義付けのなかで同類を求めるからである。逆に仲間から外れようともする。みずからが望む群れの内実が変わってしまったなどその理由はさまざまだろう。いずれにしてもそれらが個人の意思によって実行され、群れている側も加入、離脱を互いの軋轢なく容認する流れの中で行われるのであれば問題はさほど生じない。

 

ところが、本書が取り上げる「差別」と「排除」はみずからの意思によって起こる事象ではない。その点は見逃してはならない。外部からの理不尽な何らかの理由により、あるいは不当な、さらには執拗な圧力によって「排除」「差別」されるのである。

 

その意味では、この地球上で繰り広げられてきた生物学的な「適者生存」「弱肉強食」「自然淘汰」等々が自然界の摂理として受け入れられる穏当な現象として映るほど異様な状況が今の日本で起きているのだ。

 

人間が群れて生活を始めた時から「差別」と「排除」は人間の心の宿痾となり、絡みつき、まとわりついて離れることはない。たとえ差別や排除をする気持ちなどまったく意識されていなくても。

 

人種差別や民族差別は世界中に存在する。差別に端を発して時にはさまざまな抗争が起き、さらには武器を持って殺し合う戦いにまでなっている現状を私たちは知っている。しかし、誤解を恐れずに言えば、人種差別や民族差別は見えやすい。だが、本書で取り上げられている「差別」「排除」は複雑化した日本という国とそこで生きなければならない人たちが直面している事態であり、当事者でなければ見えない、理解できない事象も少なくない。

 

また「差別」と「排除」には多者と少者、加害者と被害者、強者と弱者といった立場の違いがあり、多者や加害者は少者や被害者、弱者の苦痛や苦悩を同程度に感じることがないばかりか、そうした苦境への理解を持たない。よく言われることだが、足を踏んだ者は足を踏まれた者の痛みを理解しないだけでなく、足を踏んだことさえあっさり忘れてしまうのである。

 

この立場の違いで言えば、少者には多者からはまったく見えない、気づくことのない、社会的からの「排除」がいつの間にか起きている場合がある。たとえばスマートフォンである。2010年でのスマホ所有率は4%程度だったが、2015年に5割、2019年に8割、そして2023年4月には96.3%に上ったという(モバイル社会研究所による調査)。調査対象年齢が15歳から79歳までの男女なので、国民のほとんどがスマホを利用していることになる。だが、わずか3.7%に過ぎないがスマホを持たない少者が存在しているのだ。しかし、この少者の存在は無視され、排除される傾向が強まっている。行政側の「お知らせ」などでも顕著になってきており、詳細はQRコードで、などという指示はその典型だろう。また鉄道では時刻表が駅から消えてきていて、時刻表があったところにはQRコードが張り出されていたりする。

 

いずれも経費削減という現在の日本では泣く子も黙る理由があるらしいのだが、4%弱の少数者の不当な不利益に気づいている日本人はきわめて少ない。

 

このような視点で本書の執筆陣が取り上げている「差別」「排除」に目を向ければ、多者、あるいは加害者には見えない事象が少者、あるいは被害者、弱者には苦痛となって襲ってきているものが何かが理解できるはずである。

 

以下に執筆者と目次を挙げてみる。

[アート]      五十嵐太郎  かたちが命令する
[弱者]       雨宮処凛   困窮に至るまでの、そして困窮してからの排除
[貧困]       今岡直之   賃労働・家族・福祉からの排除あるいは脱出
[シングルマザー]  葛西リサ   住みたい部屋で暮らせない
[学校]       渋井哲也   学校という排除空間
[社会]       武田砂鉄   「五輪やるから出ていけ」の現在地
[公共財]      田中元子   わたしたちはベンチかもしれない
[在日]       朴順梨    変質するヘイト。そして微かな希望
[障害者]      福原麻希   インクルーシブ教育は本当に可能か——障碍者と排除
[社会]       森達也    排除アートは増殖し続けている
[外国人]      安田浩一   排除と偏見を逆手にとる

 

これらはすべて日本という社会に出現している差別と排除であり、多様な人間が群れて生きなければならないからこそ起きる。そのような場では、混乱や衝突を避けるために一定の枠組みが作られる。秩序を保つために個人間、組織、公共施設・場所、行政等々、それらは人間が生きるありとあらゆる社会的空間に存在している。

 

そして何らかの理由によって、一人の人間・集団がそれらの枠組みからはじき飛ばされ、排除や差別となって襲いかかってくることになるのだ。

 

本書は、こうしたら排除や差別をなくすことができる、といったお手軽なノウハウ本ではない。編著者の森達也が「刊行に寄せて」で次のように記している。

 

「戦後から七八年が過ぎた。だから煩悶する。吐息をつきたくなる。日本はどれほどに成熟したのだろう。本書を構成する11の論考すべてに共通するキーワードは「排除」と「差別」だ。論者 たちはそれぞれの専門領域において、こうした用語や概念の現在形について考察する。問題を提起する」

 

私たちに「問題が提起」されているのである。

 

どうやら、差別や排除が私たちの生活のすぐそばにあることを、さらには無自覚の排除や差別の加担者になっているかもしれないことを私たち自身が確認することから、先ず始めなければならないようだ。

 

 

(やぐち・えいすけ)

 

 

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