- 2024-2-7
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No.82『実録・白鳥事件』
矢口英佑
「白鳥事件」とは、1952年(昭和27年)1月21日に当時の札幌市警察警備課長だった白鳥一雄警部が自転車に乗って帰宅途中、札幌市内の路上で射殺された事件のことである。今からちょうど72年前のことだった。それだけに関係者もほぼ他界しており、この事件を記憶にとどめているのは、警察関係者など一部の人たちを除けばさほど多くないだろう。
一方で、この事件を取り上げた書籍や文章は少なくない。なぜなら実行犯とされる人物や関係者が中国へ逃亡して行方不明で、事件の首謀者として村上国治を逮捕したが、その証拠となるものが少なかった。一つは、事件に関わった日本共産党から見れば寝返った人物たちの供述であり、もう一つは、射撃訓練をしたという幌見峠で掘り出した弾丸2発だけだった。しかもその唯一の物的証拠としての弾丸が警察の捏造との疑いが裁判の過程で示され、証拠としての価値を失っていた。
そのため、日本共産党の組織ぐるみの犯行とする警察側に与するか、当局によるでっち上げとして無罪を主張する共産党が展開してきた冤罪キャンペーンに与するか、それぞれの立場から書き手の主張が展開されてきたのだった。松本清張もノンフィクションとして「白鳥事件」を扱い(『文芸春秋』1960年4月号掲載、のちに『日本の黒い霧』として単行本に収める)、冤罪説の立場から推論を展開していた。
最高裁は1963年(昭和38年)10月、村上国治に懲役20年の判決を下した。しかし、村上は終始無実を主張し、刑確定後も再審請求、そして、請求棄却に対する異議申立てを続けた。それだけに社会的関心も高まり、無罪釈放の活動も活発化する中で100万人以上の署名が集められるほどだったのである。
ところで、1952年という年は敗戦から7年が経過していたが、日本はまだ真の独立国家としての形を成していなかった。アメリカを主とする連合国軍の占領下で、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が置かれていた(1945年10月2日~1952年4月28日)からである。GHQによって非軍事化、治安維持法廃止、財閥解体、農地改革、労働組合法や労働基準法の制定など急激な民主化が進められていた。
日本共産党も戦中の弾圧から解放されて自由な活動が可能となり、1949年(昭和24年)1月の衆議院選挙では、敗戦直後の混乱と窮乏、社会情勢の不安定化などの要因から35議席を獲得していた。
一方、日本の植民地支配から解放された朝鮮半島では、東西冷戦の中で1948年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)に分裂し、資本主義陣営と社会主義陣営の対立が激化して、1950年6月25日にこの2陣営による朝鮮戦争が勃発していた。
この東西冷戦構造は日本共産党にも直接的な影響が及んだ。
戦後、日本共産党が主張していた日本の民主的変革を平和的手段で達成するという路線がコミンフォルム(1947年9月成立、1943年に解散したコミンテルの後継)から批判され、1951年(昭和26年)10月の第5回全国協議会で「51年綱領」と呼ばれる党の方針へ転換して「武装の準備と行動を開始する」との「軍事方針」を決定していた。
日本共産党はこの「51年綱領」の決定後、全国的に騒擾事件や警察への襲撃事件などの闘争、破壊活動を展開するようになった。
「白鳥事件」は、日本共産党が「51年綱領」を決定しなければ起きなかった事件だったにちがいない。本書のサブタイトルに「「五一年綱領」に殉じた男たち」とあるのはそのためであろう。また「51年綱領」が10月に採択されたことこそが本書の帯にあるように「白鳥一男と村上国治の運命の交錯」が起きたのだった。決定からわずか3ヵ月後にこの事件は起きている。著者の柳原滋雄は次のように言う。
「重要なことは、「五一年綱領」の採択があったからこそ、五一年から五二年にかけ、同党の暴力的破壊活動が全国規模で次々と実行に移された事実だ。北海道では五全協と前後し、活動的な村上国治が責任者として任命され、札幌入りした。
村上は「表の顔」である札幌委員長とともに、「裏の顔」であった軍事委員会責任者を兼務し、中核自衛隊の結成に動いた」
なぜこれほどまでに村上が武装闘争に関わったのかといえば、著者が指摘するように「ソ連や中国、北朝鮮などと同じように、日本でも早晩、共産主義革命が達成され、かの地と同様の理想的な〝地上の楽園〟が建設されるものと信じ」ていて、その〝地上の楽園〟建設のための闘争と認識されていたからだった。
一方、白鳥一雄は当時、札幌市警の警備課長として札幌の警備部門の責任者だった。それはとりもなおさず「共産党員を取り締まる警備部門の現場責任者だった」ことを意味し、共産党員からは激しく敵視されるようになっていた。白鳥警部の動静を探り、執拗にその行動を監視し続けたのは襲撃する標的として早くから定められていたことを窺わせる。まさに「白鳥一男と村上国治の運命の交錯」が起こるべくして起きたと言えるだろう。
著者は本書を「この事件の総決着」と位置づけている。そのためこの事件を共産党の組織ぐるみの犯罪とし、首謀者は村上国治と断定してまったく揺るぎがない。したがって冤罪の可能性への言及が一切ないのは言うまでもない。換言すれば、本書では誰が犯罪実行者かを明らかにすることは目的とされていない。
それに代わって、第一章「開拓移民の倅」と第二章「警官になった文学青年」では白鳥と村上の二人が交錯するまでのそれぞれの人生が記されている。この二章で二人の誕生からそれぞれの死までが肉親は無論のこと、関わり合い、絡まり合った人びととの事象に基づいて記述されている。その追究ぶりはたどり着けるところまでたどるという姿勢に満ちていて、これまでの資料は言うまでもなく、みずから足を運び、多くの関係者からの証言等によって構成されている。
36歳でその人生を絶たれた白鳥一雄の記述が少なく、村上国治の記述が多くなるのは致し方ないことだが、著者は二人を生身の人間として、その輪郭を可能な限り正確に、詳細に描こうとしている。しかもいずれかに肩入れすることなく、いわば真っ白なカンバスに二人の人間像がいささかもデフォルメされることなくしっかりと鮮やかに描かれていると言えるだろう。
そして第三章「白鳥事件の発生」でも事件の実態をとらえる視点は、第一章、第二章に通底していて、加害者と被害者と立ち場は異なりながら、事件を分析する著者はみずからの執筆姿勢に対しては客観的であろうとしていることが良く見てとれる。
しかし、事件後を扱った第四章、第五章では著者の日本共産党への厳しい目が加わり始める。村上国治に対する無罪運動や共産党の戦中、戦後の動きと野坂参三らと宮本賢治らとの内部対立、そして「五一年綱領」から「六一年綱領」(通称「宮本綱領」)への転換、そして党史が改竄されたことによって、「五一年綱領」の忠実な実行者だった村上の行動は否定されてしまったのである。にもかかわらず社会運動としては62年の「白鳥問題対策協議会」の結成によって冤罪事件として盛り上がりを見せるという矛盾。それはまさに著者の言葉を借りれば、村上は「ピエロ」を演じていたのである。著者のこの指摘は鋭く、その批判がどこに向いているのかは容易に理解できるだろう。
共産党の戦後最初の新綱領「五一年綱領」に基づいて、武装闘争の方針を忠実に守り、断固遂行することにいささかの疑問も抱かずに実行した村上は結果的には用なしとされ、捨て去られたのである。不屈の闘士として日本共産党から称揚されていた村上国治は現在の共産党の歴史からは完全に抹消されてしまっている。「五一年綱領」が消されてしまったように。
本書は「白鳥事件」だけを論じたものではない。大きな特色は戦後の日本共産党の動静を白鳥事件に絡ませて論じていることだろう。特に宮本顕治が実権を握ってからの著者による日本共産党への批判的な言説には厳しさが増している。そこには村上国治への理不尽な取り扱いへの抗議の意もあるのかもしれない。
もう一つは、「白鳥決定」と呼ばれる「疑わしいときは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則を再審にも適用すべきという画期的な判断が下され、「開かずの門」と言われてきた再審請求の道を開く判例となった。そのきっかけを作ったのがこの白鳥事件で、死刑囚からの生還が実現していることの意味の重さを指摘していることである。
さらにもう一つは、白鳥事件の関係者等のその後の証言を丹念に集め、白鳥、村上二人の遺族についてのその後を追跡している。
これらを見れば、まさに本書をこの事件の「総決着」と著者が位置づけていることがふさわしいと思えるはずである。
それにしても次の著者の言葉には「五一年綱領」に殉じた男」二人への無念の想いが込められているように思えて仕方ない。
「時計の針を一九五二年一月に戻す。札幌で発生したこの事件を巡り、白鳥一雄と村上国治は事件の加害者と被害者の関係になった。
共産主義を取り締まる警察官と、権力と向き合った武装闘争時代の日本共産党員。イデオロギーの対立を除いて虚心坦懐に向かい合い、腹を割って話し合ったら、二人は理解し合える関係になったと私はこれまでの取材で痛感してきた」
(やぐち・えいすけ)
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