矢口英佑のナナメ読み #071『鷗外を考える』

No.71『鷗外を考える』

 

矢口英佑

 

本書の書名は『鷗外を考える』である。なるほどと思う。限りなく鷗外研究であり、鷗外分析である。それにもかかわらず、著者がそのような書名にせず、「鷗外を考える」としていることに感心するからである。ことさら言うまでもないが、鷗外とは森鷗外であり、森林太郎である。

 

いま敢えて本名を出したのは、作家・森鷗外と公人・森林太郎、私人・森林太郎の間を著者は何度も行きつ戻りつしながら「鷗外」を筆名とする「森林太郎」という人間に迫り、考え、そして分析しているからである。

 

本書には「幸徳事件と文豪の実像」という副題が付されている。幸徳事件とは「大逆事件」として知られるが、せいぜい皇族への不敬行為で争われるべき裁判(最高懲役5年)が「大逆罪」として24名への死刑判決を1911年1月18日に下した事件を指している。

 

著者には、

 

「わたしは「大逆事件」ではなく幸徳事件と使う。外骨がいみじくも喝破したように、それを使った瞬間に権力の術中に陥るプロパガンダ表現だからだ。言い換えではない。最初から不当に言い換えられていた」

 

との確信がある。

 

著者はこの副題に大きな意味を持たせている。いや、この副題こそ本書執筆の動機だったのではないかと思える。なぜなら幸徳事件の裁判が始まった初日(1910年12月10日)に陸軍軍医総監・森林太郎が密かに傍聴していたとする新聞記者の回想記を本書の冒頭に置いて、謎解き風に書き始められているのである。たいていの読み手は大いに興味を抱くにちがいない。

 

しかし通常、回想記といった類のものは、往々にして書き手の記憶違いや思い込みが色濃く反映されてしまうきらいがある。そのため研究論文などの資料としては、参考程度に扱うのが一般的である。にもかかわらず、著者は敢えてその陥穽にはまるかもしれない危険を犯しながら、結論的には、陸軍軍医総監・森林太郎は裁判を傍聴していたとするのである。

 

この回想記は事件判決から12年が経過した1923年に猪股達也(電火)が『新小説』に「出来事中心の世間縦横記」を発表したのだが、その中の一文が「大逆事件と森鷗外」であった。

 

森鷗外と大逆事件のつながりを単にこの事件に対する鷗外の個人的な関心として読み解く意図は著者にはない。この大逆事件に大きく関わった山県有朋を始めとする当時の政治権力の中枢にいた人びとと陸軍軍医総監・森林太郎、あるいは夏目漱石を筆頭にした作家たちと物書きとしての森林太郎(作家・森鷗外)との関わりで大逆事件を照射していくのである。

 

それは「第一章 公判の高官傍聴席にいた」だけでなく、本書の他章でも同じ手法が取られている。大逆事件とはまるで関わりのないと思われる事象が論じられたり、作品論が展開されたりしていても、いつの間にか私人と公人の森林太郎が交錯し、森鷗外と大逆事件が、そして、山縣有朋が顔を覗かせ、大逆事件が照射されるのである。

 

それにしても、本書の冒頭に置かれた猪股達也の「大逆事件と森鷗外」の引用部分は、鷗外にとって大逆事件がいかに大きな意味を持っていたのか、そして著者にとってもいかに大きな意味を持っていたのか読み手に認識させる重要な入り口になっている。それだけに著者の陸軍軍医総監・森林太郎は裁判を傍聴していたとする猪股の回想記の引用だけでも本書のほぼ4ページ分を割いている。

 

このように本書では、各章で取り上げたテーマに沿って、当時の新聞記事等を著者は多用していく。直接的な資料が欠けている場合、当時の事情を記した新聞記事は貴重な材料となることはまちがいない。まさに著者が鷗外を「考える」拠り所としている箇所が多くある。

 

したがって、大逆事件の裁判でも読み物風に記された猪股の文章は刺激的で、開廷前の様子や入廷してきた幸徳秋水ほかの被告たちの様子、裁判官たちの様子などがまるで映像でも見ているように活写されている。こうした記事は、読み手には非常に興味を掻き立てられる道具にもなっている。

 

ただし、著者の目は猪股が傍聴弁護士の澤田薫から「今日の高等官席に不思議な人が傍聴に来てゐると思うよ」と謎めいたことを言われたと猪股が記す箇所に注がれる。そして、高等官傍聴席に現検事総長を始め幾多の高官たちが着席すると、「その中に果たして、澤田が想像した通り軍服姿の森鷗外を発見した」という記述になるのである。

 

著者がこの記述に注目するのは、猪股がこの回想録発表から7カ月後の1924年3月刊の『日本弁護士協会録事 第二九三号』に「反逆者の裁き─幸徳事件の思い出」を書いているのだが、この文は最初の回想録を下敷きにしながら、鷗外に関わる部分が澤田薫の名前と共に完全に削除されてしまっていたからである。

 

なぜなのか、という疑念が読み手にも生じさせるのは当然だろう。こうして著者の削除されるに至った理由の追究と陸軍軍医総監・森林太郎は裁判を傍聴していたのかという真偽追究が始まるのである。その分析と結論に至る判断は手堅く、説得力がある。

 

その際、著者は回想記の類の陥穽については充分に承知しているからであろう、陸軍軍医総監・森林太郎の裁判傍聴に対する真偽についての検証は実に慎重に進められる。たとえば、猪股の記述に懐疑的な弁護士・森長英三郎(大逆事件の再審請求や労働事件を担当した)の一文を紹介し、著者は「鷗外が在席したという猪股のこの叙述は、リアリティがあるが研究史的には認知されていないようである」とも記している。その一方で、森長の主張に疑義を呈し、鷗外在席を支持する篠原義彦の『森鷗外の構図』中の一文も引用していく。

 

このように「鷗外在席」に至るまでの資料への目配りや分析は堅実で丁寧と言える。さらになぜ7カ月後の文章では「鷗外在席」の箇所をすべて削ってしまったのか、その理由追究では、「もともと『書くこと罷りならず』の指示破り」で、猪股には「12年も前のことで時効の意識があったに違いない。甘かったのだ」としている。

 

ただし、著者の追究はここで終わらない。何らかの「指示・圧力」があって猪股がいち早く陸軍軍医総監・森林太郎の裁判傍聴の記述消去に動いたとし、

 

 「この場合、権力から直接その指示があったのか、恭順の意からの自発的消去か。前者の動きはあったにしても(体面を潰されたという受け取りをした層はまだ存在しただろう)、後者の自発の方がよりあり得ることだ。忖度である。さらにその場合、猪股自身からか、あるいは書かれてしまった存命の澤田からかは…やや微妙なところである。

そのとき澤田は型破りの法曹人ではあったにしろ、現職の弁護士である。第二稿が日本弁護士協会の機関誌であったことが示唆的といえる。訂正稿(改竄稿)はこの組織的要請で生じた可能性がある。明言ではなくても例の気分の圧力のようなものとして…。(中 略)澤田から猪股に〝直し〟の求めがあったか、あるいは猪股が事態をいち早く察したか――ともかく阿吽の呼吸の中である。第一稿から二稿への削除が極めて簡明な切り取り方であったのは、後世へ期すところがあったのかもしれない」

 

としている。

 

この記述方法に著者が「鷗外を考える」とした意味が込められていたにちがいない。上記の引用に見られる著者の捉え方は、すべてそれを証明する資料が十全に揃ってのものではない。断片的なわずかな資料をつなぎ合わせて導き出したものである。当事者たちの直接的な証言が得られないだけに最終的には限りなく真相であったとしても事実として断定はできない。だからこそ著者は一見,関係のないとも思えるような資料や事象にも迫り、事実への接近を執拗に試みるのである。

 

この手法は「第二章 コッホ来日歓迎会の屈辱」でも同じように見られる。ここでは大逆事件からは離れ、鷗外の作品『魔睡』に登場する医師のモデル問題を追究していく。

 

これまでは昭和24年の文化勲章受賞者の一人、三浦謹之助がモデルとされてきていたのだが、著者は森林太郎の恩人で、軍医として常に上役として存在していた石黒忠悳とするのである。その結論を導き出すためにコッホ来日とその歓迎会が取り上げられ、森林太郎の精神的屈辱感がなぜ醸成されたのか、その解析が試みられるのである。

 

『魔睡』は作品論というより、モデル探索論であり、森林太郎精神分析論である。この作品に登場する医師が変質的な行為を患者の女性におこなうことから、肯定的に描かれていないことは言うまでもない。そのモデルが森林太郎の終生にわたって上司として存在し続けた恩人とも言うべき石黒忠悳だと著者は結論づけるのである。それだけに著者の追究姿勢はまるで猟犬のように獲物の匂いを追い続けて跳び回る。そのため、そのあとを追いかける読み手は、その姿(記述内容)を見失わないために一種の緊張感を強いられるかもしれない。

 

森林太郎という官僚が一人の作家として『魔睡』のような創作物に仕上げて、上司の石黒を叩くまでに至る森林太郎という人間の精神分析への切り込みは鋭く、かつ手堅く明晰である。まさに読み手を納得させてしまう力量に溢れている。

 

こうした分析力は終章の「小説家から考証史家へ」でもいかんなく発揮されている。ここでは「森林太郎之墓」とだけ誌し、官職や位階勲章から離れた一人の人間であることだけにするとの鷗外の遺言に言及していく。著者は大谷晃一の『鷗外、屈辱に死す』のように爵位が与えられなかった屈辱感の中で死んだとは解釈せず、自分の死後に爵位が与えられることこそ屈辱と捉え、先手必勝とばかりに只一人の人間としての墓を作れと遺言したというのである。

 

この終章は、これまでの六章にわたって論じられてきた著者の「鷗外を考える」エッセンスが流れ込んでの結論であり、森林太郎という人間の恐ろしいほどの反骨性が浮かび上がってくると同時に、人間の心奥の闇の濃さと深さを教えている。

 

是非一読を。

 

(やぐち・えいすけ)

 

 

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