矢口英佑のナナメ読み #064〈 『ハピネス 幸せこそ、あなたらしい』〉

No.64「ハピネス 幸せこそ、あなたらしい」

 

矢口英佑〈2022.12.12

 

本書の著者はティナ・ターナーである。

 

音楽の世界では「ロックンロールの女王」とも呼ばれ、舞台が狭く見えるほどエネルギッシュな歌と振り付けで彼女を鮮烈に覚えている日本人も少なくないだろう。特に1984年の「愛の魔力」(What’s Love Got To Do With It)は世界的に大ヒットし、1985年、1988年には日本でも公演している。

 

1986年には自叙伝「私、ティナ』(I,Tina: My Life Story)が、さらに1993年には自伝映画「ティナ」が話題になったこともあり、その人生についても関心を呼び、世界の一流アーティストとして現在に至るも高く評価されている。

 

その彼女が本書の扉に

 

本書をあなたに捧げます。/人生の一つひとつの悩みを/人知れぬ努力で勝ち越えてゆく/あなたを讃えて……

 

と読者である「あなた」に呼びかけているのである。ここまで不特定多数の読者に呼びかけることができる信念と原動力は何か。彼女は次のように書き始めている。

 

世界のどこに行っても、八十年の苦難の人生を歩み、乗り越えてきたわたしの姿に励ま されたと、声をかけてくださる方々に出会います。語られるその声の一つひとつ、お一人 おひとりの姿に、わたしはいつも胸を打たれます。

 

わたしは自らを、かぎりない難を乗り越えた人生の「サバイバー」(逆境を生き抜いた 生存者)だと思っています。成功をつかみ、金銭的に恵まれましたが、わたしを「サバイ バー」たらしめたものは、そのどちらでもありません。どんなに辛く苦しいときも、わた しが生きることへの喜びとともに、再び前を向いて立ち上がることができたのは、根本に 自身の精神面での支えがあったからです。

 

ティナ・ターナーは1938年にアメリカテネシー州の小さな町で生まれた。しかし、家庭は心安らぐ場所ではなかった。両親は常にいがみ合い、もっとも慈しんでくれるはずの母親からは疎んじられ、11歳の時に母親が、13歳の時に父親が家を捨ててしまっていた。子ども時代は「不幸」だったと彼女は述懐している。

 

またこの「不幸」には、アメリカ社会に当然のようにあった人種差別、白人による暴力が虐げられる側にいた彼女にはひたすら沈黙によって耐えるしかなかったことも影響していたにちがいない。

 

また、一番親しかった従姉が17歳で交通事故死するといったことなどから、彼女は幼い時から神についてのイメージは言葉では表現できなくても、生と死の根底には普遍的な力があると思っていたという。

 

わたしは母なる自然のなかにある神々しさを感じていました。家族の伝統的な信仰とその実践(バプティスト派を指す――引用者注)を我が事として捉え切れなくても、自分の心のなかに神のようなものが存在していることは、なんとなくわかっていました。

 

神のようなものの存在を意識しながらも、その後も彼女には不幸が襲いかかってきた。音楽世界への道を開いてくれた男(アイク・ターナー)との結婚生活は精神的、肉体的なドメスティック・バイオレンスの繰り返しであり、さらに夫の不貞で精神的にはボロボロなっていった。こうして、1968年にはステージに上がる前に50錠の睡眠薬を飲んで自殺を図ってしまうほど追いつめられていた。死だけが苦しみから逃れる残された唯一の道と信じていた彼女だったが、その望みは果たせなかった。それが彼女に精神の転回をもたらすことになった。

 

自殺しようとしてもなお生き延びたことが自身の運命であるなら、どうにかしてその運命を最大限に生かそうと思ったのです。この世に生き残ったのには何か理由があり、それはもしかすると、わたしがこの世でもっと大きな目的を果たすためなのかもしれない。

 

こうして「サバイバー」ティナ・ターナーが産声を上げたと言えるだろう。「わたしは人生がどんなに辛く苦しくても、ただただ進み続けようと本能的に、そして心の底から思う」ようになったという。

 

彼女は1971年に友人からSGI(創価学会インタナショナル)を教えられ、入会している。しかし、これは結果に過ぎないのかもしれない。なぜなら彼女はこの自殺が未遂に終わったあと、どのような場合にも立ち上がり、進み続ける道を求め、祈りの言葉を知る以前から彼女自身の祈りの言葉があったと告白しているからである。その言葉とは「わたしは進み続ける」だった。

 

仏法の実践による強い信念の獲得以前に、みずからの人生に後退はなく、前進あるのみと捉え、いかなる困難にも立ち向かう挑戦性が彼女の精神の根底にはすでに根づいていたことがわかる。その信念が「南無妙法蓮華経」と唱える唱題と結びついたことで、よりいっそう精神的な自覚が芽生え、どのような困難にも打ち勝てる強さを彼女に与えることになったにちがいない。

 

だからこそ彼女は次のように読者に語りかけることができるのだろう。

 

どんな逆境のなかでも、それに立ち向かう挑戦の姿勢と、そこにいる自分自身は変えられる、という確信です。人生の価値をもっとも高めるものは、自分自身の内にあります。一人ひとりが自身の成長を目指して努力すること、そのこと自体に、平和も安穏もあるということに気づいたのです。

 

本書には、「南無妙法蓮華経」と唱える唱題と彼女の人生体験との関りが主に語られ、仏教や仏教語に関する紹介や解説、SGI(創価学会インタナショナル)への言及なども必要に応じて記述されている。

 

しかし、本書はなによりもティナ・ターナーという女性が歌手である以前に一人の人間としてみずからの80年余のこれまでを語った人生譚にほかならない。彼女の人生の道は逆境と不幸の連続であった。たとえば自身の肉体的な疾患だけでも脳出血、高血圧性腎不全、腎移植、腸癌等々が襲いかかった。一人の生活者としては自殺未遂、離婚、息子の自殺、そして、生きる術としての歌手、常に逃れられなかったであろう精神的な重圧は想像をはるかに超えるものだったはずである。

 

しかし、その人生をどのように歩み、どのように対処し、みずからの道をどのように切り拓いてきたのかを語る彼女の言葉には微塵も悲壮感はない。みずからの人生譚を紐解くことで、読者に勇気を与え、ポジティブな人生を歩んでもらおうという願いに満ちているのである。

 

わたしがなぜ過去のすべてを喜んで、感謝して受け入れるかというと、私の人生すべてがひとつ残らず、わたしの宿業であると同時に使命であると信じているからです。

 

わたしたちは皆、自分にしか果たせない使命、目的を持って生まれてきます。

 

悟りにも似た彼女のこの言葉からはダイナミックな歌唱力を持ったティナターナーではなく〝敬虔〟、〝静謐〟さをたたえた一人の説教者の輪郭が鮮明になっている。

 

(やぐち・えいすけ)

 

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